『ルパン三世 セブンデイズ・ラプソディ』
http://www.ntv.co.jp/kinro/lupin-3rd/

いよいよ来週。これほど時代性を必要とした作品もないが、『カリオストロの城』は、いつ見ても上手いと思えるんだから、やれないことはないはずだ。そうであって欲しい。
お約束塗れの生温い死んだシナリオでないことを祈る。
『ZEGAPAIN -ゼーガペイン- 』はクライマックスへ向けて盛り上っているが、今の所は作品のテーマであろう幸福への痛みを伴ったラストしか想像できないが、きっともっと上手な〆方で驚かせてくれるんだろうと期待。
『遊戯王デュエルモンスターズGX』が熱い。デュエルはパターンでしかないんだけど、その中でのやりとりが熱い。兄弟に父親といった越えるべき壁、運命を全力で乗り越える。陳腐なんだけど、とにかく真摯に熱くぶつかっていく様は、正にヒーローだ。
『僕等がいた』は演出も上手く、よく出来た作品なんだけど、感情移入からは程遠い。それは、僕にとって、僕やメタ的に見た僕の代弁者はどこにもいないか、触れられもしないからだ。僕は、もっといじけた作品の方が好きだ。
吹き溜まりだったあの日の僕は、素直に青春したかったのだけど、そうしたら、その時の唯一にして最大の社会である学校から阻害されていたであろう。非行に逃げ込むことのできなかった僕には、社会復帰の特急券「更生」もなく、良くてもひきこもり、悪ければ無差別殺人者が関の山だった。
時折、メタ的に見て少しでもいじけた作品を好きでいる者に、もっと素直に青春して手近な幸せを掴めと言う人がいるが、自意識過剰と言えばそれまでだろうが、たぶん、そうして触法少年となった時には、おとなしかった、真面目だったと語るだけで、己の焚き付けを省みないだろう。それでいて、自分の素晴らしい人さ加減に無頓着なのだ。
そういうことを考えてしまうから、こういう作品は好きになれない。
『SLAM DUNK』のOPで、踏み切りを挟んで晴子が手を振るカットは顔と体のバランスのせいか変に感じる。だが、晴子の愛らしさの際立つ良い絵であり、その後の照れ気味に手を振り返す花道が惚れるに十分だ。こういう絵が好いた惚れたには必要なのだ。
どの段階でキャラクターが好いたか惚れたかと見なすことは見る者の定義によるだろうが、現実においては何時の間にかということもあるだろうが、フィクションでは積み重ねやきっかけ無しでは説得力に乏しい。また、そういう描写には力を入れるべきだろう。

『機神咆吼デモンベイン』
この作品の魅力と成り得たであろうと思しきもの、それは、「アル・アジフ」というキャラクターの魅力だ。それ以外の、ロボット、魔術、クトゥルフ、ジャーゴン的用語は実際は味付けか相乗効果としてあれば好ましい程度のものだ。
実際に1クールで収めきるのは難しい話だったことは問題だろう。しかし、「大十字九郎」の目線を兼ねているカメラワークやそのシーンで「アル・アジフ」が大して魅力的に描かれてはいなかったということの方が大きい問題ではないか。
よく分からない間に相思相愛になった御二人さんが、いつもの如く世界とか愛とかを根底にして、ご大層な理由付けや設定をもった敵を倒した。でも、美学とか矜持からは程遠かった。それが、この作品の全てだ。
『吉宗』が税金対策かどうかはさておき、やりたい放題の様相を呈してきていて面白い。
今、貴重な何やっても良いが、それなりの予算で実施されるのなら、悪くない。

・まとめ
まあ、買わないんだけどね。
設定があるから、話が広がる。話を広げるために、設定を用意する。同様に、設定があるから、話に制限がある。話に制限を設けるために、設定を用意する。
話やキャラクターの行動にリアリズムをもって展開されるならば、正の相互作用を生むだろう。しかし、設定だけで話やキャラクターの行動にリアリズムがなければ、その設定の綿密さが逆に気持ち悪いものに感じられたりする。ただ、話やキャラクターの行動にリアリズムがあっても、設定が滅茶苦茶な状態を許容しない作品には、そこそこに綿密な設定が必要だ。
結局は、作品の目指す方向によるだろう。

・まとめ
リアリズムに正の相互作用を成せる設定は是で、成せないものは非といったところか。
キャラクターの知能というものを意識するなら、それは、話し方や性格や行動に表れてくるものだろう。
それを踏まえるならば、『おとぎ銃士 赤ずきん』の主人公は話の展開や都合のために、頭が冴えたり、鈍くなったりして見える。ファンタジー自体が大嘘で成り立っているのだから、頻繁に御都合的な展開を繰り返すのは、リアリズムを削ぐことになるのではないか。
また、子供向けであっても何か本気を感じさせるものがあるのならば、それが矜持というものなのだろう。しかし、この作品からは未だそれを感じない。
個人的には、このままだと大コケで終わると思う。
性や暴力の表現に対して、ある程度の規制は必要だと思われる。その規制の上で、直接的な表現を避け描写する場合には、暗喩や加工等で高度な技術を要求される。
例えば、死体を描かずに死を表現することはよくあるが、その場合、リアリズムを生み出す工夫が必要だ。同様に、裸体を描かずに性的興奮を誘発するには、高度な見せ方や演技力が要求される。
いっそ、首飛ばしたり、裸出した方が楽なこともある。だが、絵で描かれると陳腐に見えることがあって、不思議なものだ。

・まとめ
どちらにせよ。規制の上で、完成度を高めるには、ある程度の技術が要求される。
現実と虚構の区別が付かない者にとって、リビドーに直結すること以外で、例えば、物語を楽しむこと等は出来るのだろうか。(ここでいう楽しむとは快不快以上のものを指す)現実の何かや、現実に条件を加えてシュミレートした場合のリアリティーというかリアリズムを楽しむことは、現実と虚構の区別が出来ていなくては不可能ではないか。
また、虚構を現実にしようとすることや、できると思ってしまうことの内、犯罪に直結することや不快に感じるものを問題としているのに、そうでないものと一緒に現実と虚構の区別が付いていないと言っているだけではないか。それは、虚構の中でも便利なものや、役立つものを製品化する行為は歓迎されることからも明らかだ。本当に、現実と虚構の区別が付かない者が、なぜ、虚構を現実に反映させようとするのか。既に虚構で叶っていることなのだから、それで満足出来るのではないか。それならば、現実と虚構の区別が付いているからこそ、虚構を現実に反映させようと出来るのではないか。
虚構に刺激されたと思しき者を、体よくレッテル張りするだけの専門家や分析家よ。いい加減にしたまへ。

・まとめ
ぼろいことをする者は、地獄の火の中に投げ込むものだ。
また、それに踊らされるものも同様である。
では、この文章を書いた私はというと……。地獄行きですな。
『N・H・Kにようこそ!』は1クールみたいだが、その落とし所はまるで分からない。
ただ、佐藤君のもがく姿は、自己と錯覚する程に身近に感じてしまう。
この作品には、佐藤君と一緒に視聴者も救済されるような気にさせてしまう力がある。
そういう意味では、つまらんメタファーや彼岸、永遠に訪れないとも思える歓喜の時等ではなく、身近にして難題の自意識について、真摯に取り組んでいるので非常に宜しい。
全ての、素直に、理想的に、快活に、承認された、といった青春を遅れなかった者達に送る作品だ。
逆に、あちら側やそこに憧れる者にとっては、気持ちの悪い作品となっている。
今後の、頑張らないで頑張る頑張りに、否が応でも期待が高まる。
ついに、『おとぎ銃士 赤ずきん』のOPとAパートの間に玩具のCMがあったが、それが終わった後のAパートの頭がその玩具のアップから始まったのを見て、吹いた。
これくらいあざとくないとね。でも、玩具自体の面白さや求心力がないと、最悪打ち切りもありそうなので、頑張って欲しい。
『出ましたっ!パワパフガールズZ』は番組の質感が『パワパフガールズ』と違っているからか、面白さや良さが上手く出せないでいる。確かに、別の作品だから、この作品としての良さを一から模索している所だろうが、ちょっとつまらない。
今後に期待したい。
『クレヨンしんちゃん』の次回予告でうさぎが出てきた。
幸せうさぎにしか見えなくて、初登場から気になってたけど、また出てきた。
ムトウユージが監督になってから、この手の声ネタやパロネタが増量した気がする。
現代や現実的な題材を使った作品の中でも、現実的恋愛を含んだ作品を現代的作品と定義する。それに対して、ファンタジーやSFや現実的に考えると都合の良すぎる相手との恋愛を含んだ作品がある。
今日のアニメにおいては、後者に分類される作品の方が圧倒的に多い。そして、後者の作品は、それを支持する者の抑圧された欲望や願望を仮託しているので、気持ちが悪いと否定されることがある。そういう否定をする者が高評価を与える作品は、(あくまで、ネット上や私個人の経験上でだが)前者に分類されることが多い。
確かに、後者の作品に対し、そのように感情移入するという側面は存在する。だが、前者の作品に、そのような側面が全く存在しないということはない。また、それらの作品をメタ的に見るならば、現実の自分に通ずる何かが存在している。
つまり、前者の作品に感情移入して感動することと、後者の作品に感情移入して感動することに大差はない。それが、マジョリティ的であるか、マイノリティ的であるかによって、肯定や否定されているのが現状である。
最後に、前者と後者の現実からの乖離具合の差をメタ的に見るならば、それが、マジョリティとマイノリティの現実での充実具合や抑圧具合の差であることを指摘しておきたい。
今週の『ハチミツとクローバー2』は感動的な話を上手く演出していて良かった。
この作品は「天才」と「凡人」との対比や、自己認識を軸にしている部分が多いが、本当は「天才」と「凡人(天才ではないが、凡人の中ではそれなりに非凡)」が正しく、その「凡人」が「天才」にコンプレックスを感じて吹き溜まっているけれど、もっと本当に「凡人」な私には感情移入できる要素はない。
従って、私は出来の良さに感動(より正確には感心か)しているのであって、感情移入して感動してはいない。
それが、この手の作品に素直に感動できない原因だと思った。

名作

2006年8月15日 アニメ・マンガ
サンテレビで朝に帯で再放送されている『ど根性ガエル』が面白い。
取り立てて劇的なことがあるわけでもなく、ピョン吉がいるという非日常的なことだけがある日常が描かれているんだけど、これが面白い。
話や(キャラクターの行動等の)物語り方の整合性の放棄、それ自体は失敗ではない。
ただその場合、キャラクター、デザイン、レイアウト、音響、キャラクターや演者の演技といった諸要素は作品の魅力となりうるので、高い完成度を要求される。
例えば、主人公が没個性的であったり、おかしな奴であり、彼の態度や行動は一貫性がなく、特に意味がないとする。
それでも、ヒロイン等が魅力的なキャラクターであったり、デザインに魅力があったり、レイアウトに魅力があったり、音響が雰囲気を出していたり、キャラクターや演者の演技といった要素がある程度のレベルならば、それは人を惹き付けることもある作品足り得る。
他には、ロボットもので、なぜか極東のある国にだけ、世界の命運を握る巨大ロボットがあるとして、その理由や説明が放棄やこじ付け気味にいても、キャラクターやロボットを生かすためだけの話であっても面白く感じることはある。
しかし、往々にして現状の制作体制や原作付なら原作が媒体変化によって魅力を失ったりして、見るも無残な易くて安そうな作品が出来上がったりする。
また、先に挙げた諸要素の完成度が(それ自体が作品を損なうものより上の中では)低くても、話や物語り方の整合性を保っているならば、大きな感動はないが、そこそこに見られる作品になることもある。

易くて安そうと言ったが、実際には安くない場合も多いだろう。
その空中分解ともいうべき状況を見るにつけ、惨状を語ることや批判することは容易だが、残念な気持ちになる。
全ての作品に少しでも見所があって欲しいと思っていても、現実は非情だ。

・まとめ
作品の魅力⊃話や物語り方の整合性
作品の魅力⊃先に挙げた諸要素

話や物語り方を大事にしないと、相当の労力が必要な作品となり易い。
あくまで、多くの場合そうなるみたいだということである。それでも、言語化不能な、一種の質感ともいうべきものに惹き付けられる作品が存在している。
『機神咆吼デモンベイン』は心躍るロボットバトルが見れるわけでも、しっかりとした絆が見れるでもなく、安直なラブストーリーの尺を埋めるためにロボットバトルが展開されてるようにしか見えない。
このままだと、どう見ても安直なラブストーリーを辛うじて肉付けするためにロボット等のSF要素を盛り込んだだけの作品で終わりそうだ。

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