・表現方法の違い
例えば、「込み上げる怒りに打ち震える。」という場合には、文字ではこれがそのまま表現となり得る。しかし、映像の場合はこれを感じたものが何らかの演技で行う必要がある。具体的には、台詞やその読み方に差を付ける、動きの演じ方に差を付ける。多くの場合、感情の背景や情景の説明的な台詞は陳腐に感じられる。例えば、込み上げる怒りに打ち震えているからといって、「私は込み上げる怒りに打ち震えている。」などと言うことはまずない。実際には、声の調子、息遣い、表情、動きといったものから伺える。だが、説明的な台詞や演技が必要な場合もある。物語上の一瞬の出来事を心理的時間の演出として実際よりも長く、要するにスローモーションに見せた場合などには(スローモーション=時間の引き延ばしと受け取る記号となりつつはあるが)、それが一瞬のことであるという説明のために何らかの説明的な台詞や演技が必要となる場合がある。

・時間そのもの差
多くの場合、「30行の文字を読む時間≠その30行を映像化した場合の時間」となり長かったり短かったりと差が生じる。また、意図的に長くしたり短くしたりも出来るだろう。

・時間に対する情報量の差
時間に対する情報量の差も含んでいる。演技に何か複雑な意図があるのなら、それを文字にした場合にその複雑な意図の分だけの情報を持っていることになるだろう。それが読み取れるかどうかはその作り込みによるだろう。
他媒体からのアニメ化、特にゲームを原作とする場合について

・物語自体の時間的制約
ゲームにおいては「プレーヤーのプレイ時間=物語の時間」となり、アニメにおいては「視聴者の視聴時間=物語の時間」となる。一見すると、時間が物語の時間と等価であり、同質のものであるかに見えるが、実際には多くの場合物語の時間は「ゲーム>アニメ」である。ゆえに、取捨選択や選択性の違いを考慮した再構成が必ず行われる。要するに尺が違うから、見せ方も変わるのではないかということ。

・キャラクターの登場時間の制約
物語の時間に制約があるということは、キャラクターの登場時間も同様に違うということである。逆に「キャラクターの登場時間の総計≒物語の時間」とも言える。また、ゲームの場合はルートによってキャラクターの登場時間が違ったりするが、それと同様に全てのキャラクターを登場させるという行為はしばしば時間的制約により破綻をきたす。これは「キャラクターの登場時間の総計≒物語の時間」であるのならば、物語上大した意味のない顔見せ程度に終わっている場合において、必要な描写を行う時間の変わりにそれが行われるからではないかと思われる。

・物理的心理的時間の差
ゲームにおいては会心の一撃がなぜ会心の一撃であるのかという描写やその必要性が低い。なぜなら、会心の一撃は威力が数値的に見てとれる。アニメにおいては、その威力を物理的または心理的に表現する必要がある。その過程において同じ事実の表現であったとしても、表現自体の時間の差があるので、両者には時間に差が生じる。
『うたわれるもの』
0秒から2秒23Fまでの4回の金属音に対するタイミング(4回目の音だけ若干長くて止め画でなく動く)、14秒9Fから16秒23Fまでの音に対するカメラワークとタイミング、35秒19Fから36秒16Fまでの音とタイミング、40秒2Fから41秒11Fの演奏に対するタイミング、1分16秒20Fから1分20秒6Fの演奏に対するタイミング、曲終わりに合わせたクレジットのタイミング
「子供の頃の夢は〜」、「澄み渡る空〜」、「やがて自由に〜」、「無垢な瞳は〜」、「空の向こうへ〜」、それぞれの歌詞に合わせた画。
曲に合わせたOPについて、現在放送中の番組を例に挙げてみよう。(Fはフレーム1秒=30F、判る範囲のみ書きます)
地上波アナログを録画したものを参考にしているので、DVD化の際にはフレーム単位での補正や修正があるかもしれません。また、地上波デジタルの場合にも若干の誤差があるかもしれません。

『桜蘭高校ホスト部』
0秒から2秒までのドラムとのタイミング、2秒から4秒の「KISS KISS FALL IN LOVE」の歌とのタイミング、54秒から55秒15Fまでの「爛漫恋しよ」の歌とのタイミング、1分14秒5Fから1分16秒5Fまでの「MAYBE YOU’RE MY LOVE」の歌とのタイミング。
桜蘭や曲名『桜キッス』に合わせた花弁や花の背景。

憧れ

2006年6月9日 お仕事
結構前に録画してた『ゾロリ』を見て不覚にも涙。ゾロリは矜持を持ったいかす兄貴分なのだ。ばいきんまんと同じく、うだつの上がらない者達の永遠の上昇への挑戦と憧れを持ったロマンがある。たまにこういう回があったりするから好きだ。

予定

2006年6月8日 日常
夏の予定。
例の奴を総括。
後、入院してたので追々更新の予定。

変遷

2006年6月7日 アニメ・マンガ
VHSテープは最早旧時代の遺産となりつつあるのだろうか。
我が家のテープ達も年1に巻き取るだけで見なくなった。
デジタル機器も手に入ったわけで、デジタル化してやろうかとも思う。
しかし、しかし、惜しむらくは3倍撮り。
ああ、これが若さゆえの過ちか……
未だに深夜番組で「テレビを〜」のテロップが馬鹿の一つ覚えで挿入されている。
DVDを買わそうという魂胆なのか。
でも、それでは商品価値自体は上がらない行為だ。
舐めきっているとしか思えない。
早くなくなって欲しい。

・まとめ
テレビをみる時は部屋を明るくして離れてみてください。
動かないという演出を見た。
エヴァでもあったけど、あの時の実験的なそれとは違って日常の演出として十分なものだった。
どうせなら、もっと長回しでやって欲しかった。
もちろん、単純に動かないということではない。
動に対する静、あえて動かさないということだ。
これが海外のアニメーションとは違う日本のアニメの特徴だ。
ちなみに、前回の「涼宮ハルヒの憂鬱」のことです。
『姫様ご用心』を見ていて分かった。
天然系キャラクターに対する違和感は作品がつまらないから生じていたのだ。
延々滑る以前で終わるギャグにも似つかぬ展開。
笑えないから「ありえねーよ。」とつっこみたくなる番組なんだ。
天然系は諸刃なのではないかと思った。
動いているなんて言うが、髪の毛とか服とかが不必要に動きまくるだけの番組もあるなと思った。
止める所は止めないと乱暴だなとも思った。
「デモンベイン」のロボットが思ったより動かなかったので残念。
まあ、伊藤健太郎が咆哮するだけでもよしとしておこうか。

今後の予定

2006年6月1日 日常
7月の新番組については6月中旬頃からまとめていく予定です。
何だかんだで、後で見返したら便利なんで続ける事にします。
「涼宮ハルヒの憂鬱」のEDで気になった点をいくつか。

・服装
古泉はダブルノットでタイゾーンに納めようとしていて、ジャケットもボタンを留めており、シャツは出ていない。(一瞬だけ収まったりと非常に残念)
キョンはボタンは留めていないしシングルノットでタイゾーンに収めるつもりもなく、申し訳程度にしている。ジャケットのボタンも留めていなくて、シャツも出てる。
キャラクター性が良く出ていて、かつ行き届いているなと思った。

・キョンが面倒臭そう
他のキャラクターと比べて明らかに弾んでいない。特に足を見ればそれが目立つ。
「うたわれるもの」を見ていて、こういう合戦って面白いなと思った。
刃物、矢、石、火薬、獣。
ファンタジーな設定もあるけど、変にSFな武器が出てこない。
その分、肉体のぶつかり合いが中心になってきて、この感覚が実に良い。
ストーリー中心のものでは、今一番のおすすめ。

メモ-伏線-

2006年5月29日 メモ
事実(伏線)→仮説(視聴者のするであろう推定)→実験(本編)→実証(視聴者の納得)
要するにこのような思考の繰り返しかと思われる。
たまに実験の段階で全然気づかなかったぜとか間抜けな台詞が入って台無しになったりもする。
かと思えば、見えていない上に極めて難解であったり雑だったりすることもある。
適度に気づかせるか、気づいていなくとも納得させる。
そのさじ加減が難しいと思われる。
行き当たりで事件に巻き込まれて話が進んでいく場合もあるので、必ずしも明確な伏線が必要というわけでもないと思われる。
隠し情報といった所か。
SFの謎だけで引っ張るのは10年前のセンスって事ですな。
そんな出涸らしの同じ手法でもそろそろ新しいお茶の葉にしないとね。
「ゼーガペイン」は早速大きな謎を明かしてきた。
新たな茶の味は如何なるものか。
「獣王星」の堂本光一は下手じゃないけど上手くもない。
呼吸というのか、凄く異質だ。
声質、あてる、演じるの三拍子揃ってこそだなと思った。
話が面白いだけに、その点が残念だ。
「シムーン」で小林七郎の名前があったなと思い出した。
なるほど、多少なりとも出崎演出ぽさがあるのはこのためかと思った。
まあ、よく解らないままで場当たり的に起こる事件を魅力的であるとされるキャラが解決していくだけで、面白さはないんだけど。
アニメのOPやEDのプロモーションとしての完成度は凄い。
ドラムに合わせてカットを変えたり、ベースに合わせてカットを変えたり、色々ある。
しかし、オリコンランキング運動をしようとも、カラオケに配信されても絵等出はしない。

・まとめ
アニメ関係の曲は全部絵を出して下さい。

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