はしゃぐぜ
2010年5月15日 放送中のアニメの感想とか『SDガンダム三国伝 BraveBattleWarriors』第6話
孫権陣営は0083が中心で、妹の孫尚香はガーベラと、なるほど。長物を振り回してブーメランの様に投げる技で大はしゃぎの中、敵の大将は単騎駆けが大好きで危うい空気が漂うが、この陣営の神器を使っての立ち回りで倒す。孫尚香はうざったいけど、ガンダムでの擬人かなので少し可愛らしく抑えられていた。
孫権陣営は0083が中心で、妹の孫尚香はガーベラと、なるほど。長物を振り回してブーメランの様に投げる技で大はしゃぎの中、敵の大将は単騎駆けが大好きで危うい空気が漂うが、この陣営の神器を使っての立ち回りで倒す。孫尚香はうざったいけど、ガンダムでの擬人かなので少し可愛らしく抑えられていた。
頭クリア
2010年5月14日 放送中のアニメの感想とか『遊戯王5D’s 』第108話
デステニードローに匹敵する新たなキーワードのクリアマインドって、最早デュエルとは全く関係ないのだけど、要は無我の境地ってことですな。親や師匠がいなくても、己の限界を超えた境地に達し、スピードの限界を超える。書いてて微妙な感じはするけど、速さには格好良さそうな印象が確かにあって、デュエルとしてはつまらないけど良いのかな。
デステニードローに匹敵する新たなキーワードのクリアマインドって、最早デュエルとは全く関係ないのだけど、要は無我の境地ってことですな。親や師匠がいなくても、己の限界を超えた境地に達し、スピードの限界を超える。書いてて微妙な感じはするけど、速さには格好良さそうな印象が確かにあって、デュエルとしてはつまらないけど良いのかな。
メモ-ロボットアニメが警鐘する思考の罠-
2010年5月13日 アンチプロパガンダ本文では、ロボットアニメとは、巨大ロボットアニメを指すものとする。
ロボットアニメの多くが専守防衛型だとはhttp://69541.diarynote.jp/201005030646578062/で既に述べたが、専守防衛に潜む問題を考えてみる。
我が敵の攻撃に対して反撃を選択するのではなく、選択肢が反撃のみであることは問題である。これは、敵の攻撃を受けなければ、我が攻撃出来ないとも言い換えられる。また、反撃に目が行くと忘れがちだが、敵の攻撃を受けると損害が発生する。さらに、敵が攻撃のための準備をしていても、我は敵に先んじて攻撃を行うことが出来ない。我が反撃しか出来ないことは、敵が我を反撃不可能にする規模の攻撃を行った場合、我は反撃出来ずに一方的に壊滅的な損害を被ることを意味する。フィクションでは直接の表現を避けられがちだが、壊滅的な損害とは、建築物の破壊や人命の喪失である。現実的には、迎撃や先制攻撃等によって、敵が被ると予想される損害から、攻撃を躊躇させる効果があり、これは抑止力と言えよう。しかしながら、ロボットアニメにおいては、反撃に特化した専守防衛型の方が、正々堂々と敵を討ち破る印象になるためか、迎撃や先制攻撃は軽視される。
物語において心地よくて有効な方法が、現実において心地よくても有効な方法ではない点は、思考の罠といえよう。ロボットアニメが、このような思考の罠を何年にも渡って表現してきたことは、ロボットアニメからの警鐘と言えよう。
ロボットアニメの多くが専守防衛型だとはhttp://69541.diarynote.jp/201005030646578062/で既に述べたが、専守防衛に潜む問題を考えてみる。
我が敵の攻撃に対して反撃を選択するのではなく、選択肢が反撃のみであることは問題である。これは、敵の攻撃を受けなければ、我が攻撃出来ないとも言い換えられる。また、反撃に目が行くと忘れがちだが、敵の攻撃を受けると損害が発生する。さらに、敵が攻撃のための準備をしていても、我は敵に先んじて攻撃を行うことが出来ない。我が反撃しか出来ないことは、敵が我を反撃不可能にする規模の攻撃を行った場合、我は反撃出来ずに一方的に壊滅的な損害を被ることを意味する。フィクションでは直接の表現を避けられがちだが、壊滅的な損害とは、建築物の破壊や人命の喪失である。現実的には、迎撃や先制攻撃等によって、敵が被ると予想される損害から、攻撃を躊躇させる効果があり、これは抑止力と言えよう。しかしながら、ロボットアニメにおいては、反撃に特化した専守防衛型の方が、正々堂々と敵を討ち破る印象になるためか、迎撃や先制攻撃は軽視される。
物語において心地よくて有効な方法が、現実において心地よくても有効な方法ではない点は、思考の罠といえよう。ロボットアニメが、このような思考の罠を何年にも渡って表現してきたことは、ロボットアニメからの警鐘と言えよう。
あひゃ
2010年5月12日 放送中のアニメの感想とか『たまごっち!』第29話
Aパートはゴッチ大王にお呼ばれして、玩具出ないのかなと思っていたシェイクおばさんが再登場。あひゃひゃひゃな果物を間違えて飲んだために、解毒の果物を飲むことになるが、今度はうふふふな果物と間違えてしまってを何度か繰り返して収拾出来ずに投げっぱなしで終了。でも、今回はシェイクを作る玩具の宣伝もあって便利だなと思ったので、毎度ながら上手い。
Bパートは時事ネタのワールドカップ話。サッカー未経験の皆とのグダグダの練習は、ありがちな窓割りやずっこけと中々に楽しい。最後は、代表選手とのお遊びで皆がはしゃぐ中、猛特訓済みのくろまめっちが堅実なプレーで魅せる。
眉毛の無いデザインで表情を付けて感情を表現する巧みさは、記号表現なのだが可愛らしくもある。顔の無いゴッチ大王の再登場で改めてそれを感じた。
Aパートはゴッチ大王にお呼ばれして、玩具出ないのかなと思っていたシェイクおばさんが再登場。あひゃひゃひゃな果物を間違えて飲んだために、解毒の果物を飲むことになるが、今度はうふふふな果物と間違えてしまってを何度か繰り返して収拾出来ずに投げっぱなしで終了。でも、今回はシェイクを作る玩具の宣伝もあって便利だなと思ったので、毎度ながら上手い。
Bパートは時事ネタのワールドカップ話。サッカー未経験の皆とのグダグダの練習は、ありがちな窓割りやずっこけと中々に楽しい。最後は、代表選手とのお遊びで皆がはしゃぐ中、猛特訓済みのくろまめっちが堅実なプレーで魅せる。
眉毛の無いデザインで表情を付けて感情を表現する巧みさは、記号表現なのだが可愛らしくもある。顔の無いゴッチ大王の再登場で改めてそれを感じた。
牛
2010年5月11日 放送中のアニメの感想とか『夢色パティシエール』第30話
チーズケーキ練習のために、素材となる乳製品を作っている牧場の見学に出かける一行。キャラクター化された牛が可愛いのは勿論、一頭一頭に名前を付け愛情を込めて育てる牧場のおじいさんに応えるように牛も書き分けられていて、技術が物語の内容を後押ししていた。スピリッツと牛との交流、出荷した後の製品を使って振舞われたお菓子に涙する姿など、ベタだけど印象に残る話だった。
EDの絵の変更に伴って、スタッフロールが左寄せになっていた。真ん中だと、キャラクターと被ってしまうためか、絵の内容があまり印象に残っていなかったので良い判断だと思う。実際、キャラクターを売りにしている作品では、OPであれEDであれ、クレジットをキャラクターの顔、特にアップでは被せないようにしている作品が多い。
チーズケーキ練習のために、素材となる乳製品を作っている牧場の見学に出かける一行。キャラクター化された牛が可愛いのは勿論、一頭一頭に名前を付け愛情を込めて育てる牧場のおじいさんに応えるように牛も書き分けられていて、技術が物語の内容を後押ししていた。スピリッツと牛との交流、出荷した後の製品を使って振舞われたお菓子に涙する姿など、ベタだけど印象に残る話だった。
EDの絵の変更に伴って、スタッフロールが左寄せになっていた。真ん中だと、キャラクターと被ってしまうためか、絵の内容があまり印象に残っていなかったので良い判断だと思う。実際、キャラクターを売りにしている作品では、OPであれEDであれ、クレジットをキャラクターの顔、特にアップでは被せないようにしている作品が多い。
こんな可愛いのに
2010年5月10日 放送中のアニメの感想とか『会長はメイド様!』第4話
男勝りの女会長とイケメン変人の恋ならぬ恋模様に女装趣味の少年が加わって何が何だかの混沌とした様相だった。しかしながら、表面的に倒錯していようと本質的には正常であるから、劇中劇を楽しむかのように楽しめた。別段面白いことがある分けではないが、眺めていて疲れない楽しさがある。
男勝りの女会長とイケメン変人の恋ならぬ恋模様に女装趣味の少年が加わって何が何だかの混沌とした様相だった。しかしながら、表面的に倒錯していようと本質的には正常であるから、劇中劇を楽しむかのように楽しめた。別段面白いことがある分けではないが、眺めていて疲れない楽しさがある。
メモ-ロボットアニメの歴史に潜む共和制賛歌とそれを超えた伝統-
2010年5月9日 アンチプロパガンダ本文では、ロボットアニメとは、巨大ロボットアニメを指すものとする。
スーパーロボットとリアルロボットの違いはほとんどないのだが、あえて挙げるなら、ロボットが軍事組織に属しているかどうか、神秘的な力に守られているかどうか、兵器として運用されるロボットであるかどうかと、それに一定の妥当性を感じる物語と設定があるかどうかが挙げられるだろう。
『機動戦士ガンダム』はリアルロボットの元祖として挙げられることが多い。この作品では、ロボットが軍事組織に属しており、神秘的な力に守られておらず、兵器として運用されるロボットであり、政治的な駆け引きや心理にも一定の妥当性を感じる物語だろう。そして、主人公が父親の開発したロボットを縁あって操縦することとなる。これは、力の継承と言える。また、ロボットは他のキャラクターでも操縦可能なのだが、特異な能力を開花させて親と決別してなお名実共にロボットの専属操縦を継承し、敵の親玉を倒しての勝利で終わるのではなく、絆を深めた仲間の元へ帰る終わり方になっている。
『機動戦士ガンダム』では、敵は絶対君主国家であり、味方は共和制らしき地球連邦である。しかしながら、共和制らしきと表現したように、地球連邦では特に最高指導者が描かれることが無い。また、後に続くリアルロボット路線がほとんど共和制一色で、まるで戦後のアメリカへの憧れを体現したかのような状況であり、それを見て育った世代が再生産してきたように見受けられる。このような共和制賛歌とも呼べるものを作り続けたリアルロボットアニメにおいて、先駆者である『機動戦士ガンダム』が共和制賛歌ではなく、親子の関係や仲間の関係といった素朴な営みに重点をおいて始まったことは幸いだったといえる。
結局の所、スーパーロボットとリアルロボットの区別に関係なく、ロボットアニメでは、家族や先祖とその延長にある古代や現代の文明、もしくは、神やそれに類する超越した存在から継承した力であるロボットを使って、素朴な優しさとそれに基づく正義感を実行するのが特徴だ。また、素朴な優しさとそれに基づく正義感を持たない、もしくは、肝心な場面で機を逸して実行出来ない主人公は、万人に好かれるキャラクター足り得ない。それを何十年にも渡って、闘いを通して分かり易く見せ続けてきたのが、ロボットアニメであり、だから愛されているのだ。それを忘れて、ただ、古臭い表現だとオシャレで誤魔化し、共和制賛歌を補強するプロパガンダとしてロボットアニメを発信しても、万人の胸を打つことはあり得ない。
共和制賛歌に感化され憧れるのは自由だが、現実の日本は立憲君主制であり、いざ実現するとなると、日々を暮らして歴史と文化と伝統を紡いできた人々の営みを破壊することをゆめゆめ忘れてはならない。それでもなお、破壊を行おうとするのなら、破壊から人々の営みを守り続けてきたロボットアニメの歴史がそれを否定するだろう。
スーパーロボットとリアルロボットの違いはほとんどないのだが、あえて挙げるなら、ロボットが軍事組織に属しているかどうか、神秘的な力に守られているかどうか、兵器として運用されるロボットであるかどうかと、それに一定の妥当性を感じる物語と設定があるかどうかが挙げられるだろう。
『機動戦士ガンダム』はリアルロボットの元祖として挙げられることが多い。この作品では、ロボットが軍事組織に属しており、神秘的な力に守られておらず、兵器として運用されるロボットであり、政治的な駆け引きや心理にも一定の妥当性を感じる物語だろう。そして、主人公が父親の開発したロボットを縁あって操縦することとなる。これは、力の継承と言える。また、ロボットは他のキャラクターでも操縦可能なのだが、特異な能力を開花させて親と決別してなお名実共にロボットの専属操縦を継承し、敵の親玉を倒しての勝利で終わるのではなく、絆を深めた仲間の元へ帰る終わり方になっている。
『機動戦士ガンダム』では、敵は絶対君主国家であり、味方は共和制らしき地球連邦である。しかしながら、共和制らしきと表現したように、地球連邦では特に最高指導者が描かれることが無い。また、後に続くリアルロボット路線がほとんど共和制一色で、まるで戦後のアメリカへの憧れを体現したかのような状況であり、それを見て育った世代が再生産してきたように見受けられる。このような共和制賛歌とも呼べるものを作り続けたリアルロボットアニメにおいて、先駆者である『機動戦士ガンダム』が共和制賛歌ではなく、親子の関係や仲間の関係といった素朴な営みに重点をおいて始まったことは幸いだったといえる。
結局の所、スーパーロボットとリアルロボットの区別に関係なく、ロボットアニメでは、家族や先祖とその延長にある古代や現代の文明、もしくは、神やそれに類する超越した存在から継承した力であるロボットを使って、素朴な優しさとそれに基づく正義感を実行するのが特徴だ。また、素朴な優しさとそれに基づく正義感を持たない、もしくは、肝心な場面で機を逸して実行出来ない主人公は、万人に好かれるキャラクター足り得ない。それを何十年にも渡って、闘いを通して分かり易く見せ続けてきたのが、ロボットアニメであり、だから愛されているのだ。それを忘れて、ただ、古臭い表現だとオシャレで誤魔化し、共和制賛歌を補強するプロパガンダとしてロボットアニメを発信しても、万人の胸を打つことはあり得ない。
共和制賛歌に感化され憧れるのは自由だが、現実の日本は立憲君主制であり、いざ実現するとなると、日々を暮らして歴史と文化と伝統を紡いできた人々の営みを破壊することをゆめゆめ忘れてはならない。それでもなお、破壊を行おうとするのなら、破壊から人々の営みを守り続けてきたロボットアニメの歴史がそれを否定するだろう。
メモ-伝統的価値観-
2010年5月8日 アンチプロパガンダ国産アニメ全般に流れる素朴な感情について考える。
素朴な感情、取り分け素朴な優しさ(愛と呼ばれる場合も)は、恐らく国産アニメの大半が持ち合わせているものだろう。素朴な優しさとは、公平に公正に行われる善意である。特別な力を持った者から、普通の者まで、老若男女を問わず、キャラクターであれば、人、人外の異形、機械といった対象を問わず、仲間であるかどうかを問わず時には敵でさえも助けたり、幸せであって欲しいと願う。そこには、打算や妥協、主義主張を超えたただ素朴な感情があり、理想的な姿が描かれている。これは、子供向けアニメのヒーロー像として顕著なものだが、敵と闘う作品だけでなく、多くの作品の登場人物で普遍的に描かれている感情だろう。
その一例として、萌えアニメ、主人公と沢山の主人公に好意を抱くヒロインが登場するアニメを考えてみる。
現実において、人を好きになる理由は論理的に説明しきれるものではないだろう。しかしながら、萌えアニメでは、主人公が素朴な優しさを持ち合わせており、そこに惹かれるヒロインの描写が多く見られる。つまり、素朴な優しさによって、人を好きになることを論理的に仕立て、都合よく好かれる主人公を客観的に眺める視聴者に対して、一応の正当性を見せていると考えられる。
このように、素朴な優しさは受け継がれるヒーロー像であり、多くの作品において普遍の道徳的なものとして受け継がれている。だから、根っからの悪党には素朴な優しさが無いものとして描かれ、根っからの悪党でない悪党は時折素朴な優しさが描かれる。
これは、プロパガンダ的ではあるものの、アニメに限らず存在している中々に否定しがたい感情であり、良く言えば情に篤い、悪く言えばお人よしな我々の伝統的価値観と言えよう。問題は、その感情を逆手に取って搾取しようとする輩である。変なプロパガンダを素朴な優しさで覆い、それなりに面白く仕上げてある作品の狡猾さ、それは末端の人員のミクロレベルでの奮闘が、作品というマクロレベルに結集すると変なプロパガンダに正当性を与えるという誤謬になる状況であり、怒りを禁じ得ないのである。
素朴な感情、取り分け素朴な優しさ(愛と呼ばれる場合も)は、恐らく国産アニメの大半が持ち合わせているものだろう。素朴な優しさとは、公平に公正に行われる善意である。特別な力を持った者から、普通の者まで、老若男女を問わず、キャラクターであれば、人、人外の異形、機械といった対象を問わず、仲間であるかどうかを問わず時には敵でさえも助けたり、幸せであって欲しいと願う。そこには、打算や妥協、主義主張を超えたただ素朴な感情があり、理想的な姿が描かれている。これは、子供向けアニメのヒーロー像として顕著なものだが、敵と闘う作品だけでなく、多くの作品の登場人物で普遍的に描かれている感情だろう。
その一例として、萌えアニメ、主人公と沢山の主人公に好意を抱くヒロインが登場するアニメを考えてみる。
現実において、人を好きになる理由は論理的に説明しきれるものではないだろう。しかしながら、萌えアニメでは、主人公が素朴な優しさを持ち合わせており、そこに惹かれるヒロインの描写が多く見られる。つまり、素朴な優しさによって、人を好きになることを論理的に仕立て、都合よく好かれる主人公を客観的に眺める視聴者に対して、一応の正当性を見せていると考えられる。
このように、素朴な優しさは受け継がれるヒーロー像であり、多くの作品において普遍の道徳的なものとして受け継がれている。だから、根っからの悪党には素朴な優しさが無いものとして描かれ、根っからの悪党でない悪党は時折素朴な優しさが描かれる。
これは、プロパガンダ的ではあるものの、アニメに限らず存在している中々に否定しがたい感情であり、良く言えば情に篤い、悪く言えばお人よしな我々の伝統的価値観と言えよう。問題は、その感情を逆手に取って搾取しようとする輩である。変なプロパガンダを素朴な優しさで覆い、それなりに面白く仕上げてある作品の狡猾さ、それは末端の人員のミクロレベルでの奮闘が、作品というマクロレベルに結集すると変なプロパガンダに正当性を与えるという誤謬になる状況であり、怒りを禁じ得ないのである。
メモ-抑止力の間接的解体-
2010年5月7日 アンチプロパガンダ悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメについて考えてみる。
悪の軍隊とは、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家やそのような主張を肯定する集団の軍隊であり、軍隊内の悪とは、比較的正当性のある国家や集団の軍隊にあって、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺しようとする一部、とりわけ腐敗した上層部として描かれるものとそれに従って行動する下級兵士によって表現される。
現実の民主政体においては、軍隊は文民によって統制されていることを踏まえておく。よって、悪の軍隊は背景の国家や集団の文民が悪なので再生不能だが、軍隊内の悪については排除することにより文民が健全に運用出来ると考えられる。
悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメにおいて、主人公達は悪の軍隊や軍隊内の悪と闘うことになる。そこでの主人公達の描かれ方は、パルチザンに似ており、一定の正当性を与えられている。まあ、正義が悪を倒す話にすれば分かり易くなるので、当然といえば当然だろう。
また、そこでは悪の軍隊や軍隊内の悪の軍事行動によって、民間人や対峙するパルチザンの面々が負傷や死傷する場合、過剰に異様で残酷な表現がなされる。そして、過剰に異様で残酷な表現に対する嫌悪感を、作品内でそれを実行している軍隊への嫌悪感に摩り替える効果がある。嫌悪感を持つことは純真さの裏返しでもあるのだが、それを都合良く利用されている。
悪の軍隊や軍隊内の悪は正しい抑止力を体現していない。では、正しい抑止力を体現している軍隊はというと、悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメでは勿論、他のアニメでもほとんど描かれていない。
このように、正しい姿よりも正しくない姿が圧倒的な状況を続けることで、軍隊そのものを貶めているのだが、これは抑止力の間接的な解体と国軍創設の阻止を体現していると言えるだろう。
このような現象は、子供向けの作品ではほぼ存在せず、専らティーン向けの作品で見られる。流石に、子供に過剰に異様で残酷な表現を見せたり、嘘は付けないのだろうと信じたいのだが、ティーンには過剰に異様で残酷な表現を見せたり、嘘を付けるようなので、子供の理解力を侮っているか、一定の教育を受けたティーンに相乗効果を狙って仕掛けているのかと見るのが筋か。
いずれにしても、酷いプロパガンダだ。ふざけるな、作り手としての矜持は無いのか。多感なティーンの純真を振り回して、変なパルチザン気取りも大概にしろ!
悪の軍隊とは、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家やそのような主張を肯定する集団の軍隊であり、軍隊内の悪とは、比較的正当性のある国家や集団の軍隊にあって、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺しようとする一部、とりわけ腐敗した上層部として描かれるものとそれに従って行動する下級兵士によって表現される。
現実の民主政体においては、軍隊は文民によって統制されていることを踏まえておく。よって、悪の軍隊は背景の国家や集団の文民が悪なので再生不能だが、軍隊内の悪については排除することにより文民が健全に運用出来ると考えられる。
悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメにおいて、主人公達は悪の軍隊や軍隊内の悪と闘うことになる。そこでの主人公達の描かれ方は、パルチザンに似ており、一定の正当性を与えられている。まあ、正義が悪を倒す話にすれば分かり易くなるので、当然といえば当然だろう。
また、そこでは悪の軍隊や軍隊内の悪の軍事行動によって、民間人や対峙するパルチザンの面々が負傷や死傷する場合、過剰に異様で残酷な表現がなされる。そして、過剰に異様で残酷な表現に対する嫌悪感を、作品内でそれを実行している軍隊への嫌悪感に摩り替える効果がある。嫌悪感を持つことは純真さの裏返しでもあるのだが、それを都合良く利用されている。
悪の軍隊や軍隊内の悪は正しい抑止力を体現していない。では、正しい抑止力を体現している軍隊はというと、悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメでは勿論、他のアニメでもほとんど描かれていない。
このように、正しい姿よりも正しくない姿が圧倒的な状況を続けることで、軍隊そのものを貶めているのだが、これは抑止力の間接的な解体と国軍創設の阻止を体現していると言えるだろう。
このような現象は、子供向けの作品ではほぼ存在せず、専らティーン向けの作品で見られる。流石に、子供に過剰に異様で残酷な表現を見せたり、嘘は付けないのだろうと信じたいのだが、ティーンには過剰に異様で残酷な表現を見せたり、嘘を付けるようなので、子供の理解力を侮っているか、一定の教育を受けたティーンに相乗効果を狙って仕掛けているのかと見るのが筋か。
いずれにしても、酷いプロパガンダだ。ふざけるな、作り手としての矜持は無いのか。多感なティーンの純真を振り回して、変なパルチザン気取りも大概にしろ!
メモ-統一国家や国家連合の現時味-
2010年5月6日 アンチプロパガンダ政治や軍事に深く絡んだ戦争や紛争を扱うアニメにおいて、しばしば登場する統一国家や国家連合に正当性や現実味はあるのかについて考える。
国家の正当性とは、平和を愛し、公正と信義をもって、国家と国民を守ることにある。では、上述した統一国家や国家連合にそれがあるのだろうか。
現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家が存在している。このような国家が統一国家や国家連合に加わることは、その正当性を貶めることになる。ただし、外交的な圧力によって、加えざるを得ない状況を用意すれば、現実味は与えることが出来るだろう。しかしながら、そのような描写は一切ない。よって、全く現実味が無い。
そのような作品では、現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家が加わっているにもかかわらず、統一国家や国家連合は正当性を持ったものとして描かれている。
つまり、正当性を持って描かれている統一国家や国家連合に、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家を加えることで、現実において自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家に対し、間接的に正当性を持っているかのような印象を与えることが出来る。そもそも、現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家をそのような国家ではないように描いている。
作品の面白さとは関係ない部分もあるが、これをプロパガンダと言わずして、何をプロパガンダと言うのか。意図を全く隠さなくなってきたというのに、批判も出来ない批評家共々、いい加減にしろ!
国家の正当性とは、平和を愛し、公正と信義をもって、国家と国民を守ることにある。では、上述した統一国家や国家連合にそれがあるのだろうか。
現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家が存在している。このような国家が統一国家や国家連合に加わることは、その正当性を貶めることになる。ただし、外交的な圧力によって、加えざるを得ない状況を用意すれば、現実味は与えることが出来るだろう。しかしながら、そのような描写は一切ない。よって、全く現実味が無い。
そのような作品では、現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家が加わっているにもかかわらず、統一国家や国家連合は正当性を持ったものとして描かれている。
つまり、正当性を持って描かれている統一国家や国家連合に、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家を加えることで、現実において自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家に対し、間接的に正当性を持っているかのような印象を与えることが出来る。そもそも、現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家をそのような国家ではないように描いている。
作品の面白さとは関係ない部分もあるが、これをプロパガンダと言わずして、何をプロパガンダと言うのか。意図を全く隠さなくなってきたというのに、批判も出来ない批評家共々、いい加減にしろ!
試される友情
2010年5月5日 放送中のアニメの感想とか『イナズマイレブン』第79話
娘の病気のために勤務先を変える程である豪炎寺の父親が、息子の将来を息子の意思を尊重せずに押し付ける形で決めてしまう人物であることは意外だった。
サッカーが好きだから続けてきた豪炎寺にとって、自分の意に反する面はあるものの、人の役に立つ道の一つとして決意をし、同時にサッカーも含めたスポーツの持つ可能性を証明するために、自分の中で納得するために最後の試合に臨むことになる。
仲間達は、その境遇と決意を尊重出来るか、アジア予選を勝って世界大会に参加出来るか、OPの歌詞同様に勝って泣けるか。
わざわざ作品の根底を試すような話を作り続ける姿勢を心から応援したい。
娘の病気のために勤務先を変える程である豪炎寺の父親が、息子の将来を息子の意思を尊重せずに押し付ける形で決めてしまう人物であることは意外だった。
サッカーが好きだから続けてきた豪炎寺にとって、自分の意に反する面はあるものの、人の役に立つ道の一つとして決意をし、同時にサッカーも含めたスポーツの持つ可能性を証明するために、自分の中で納得するために最後の試合に臨むことになる。
仲間達は、その境遇と決意を尊重出来るか、アジア予選を勝って世界大会に参加出来るか、OPの歌詞同様に勝って泣けるか。
わざわざ作品の根底を試すような話を作り続ける姿勢を心から応援したい。
メモ-立憲君主は何処だ-
2010年5月4日 アンチプロパガンダ多くのアニメにおいて、立憲君主国家や立憲君主の話は奇妙と言える程に登場しない。日本は民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家であるにもかかわらずだ。
たかがアニメで恐れ多いという自主規制的な部分はあるのかもしれないが、政治や軍事を扱った作品やその中でも表現が優れていると評される作品でさえ、国体はというと立憲君主制についてはほとんど登場しない。そこで登場するのは、専ら共和制と絶対君主制である。
現実において、民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家があり、日本もそのような国家であろう。ならば、本質を追求する誰かが、民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家を描いた作品を作ってもよいのだが、日本的価値観の登場人物の祖国やそのもの日本を描いた作品でさえほとんど登場しない。この意味する所は、作り手に特定の意図があるか、逆に全く無いかのどちらかのように思える。
政治や軍事を扱った作品の中でも、主人公達を日本人的な人物として描く場合は、国体がはっきり描かれなくとも、日本的価値観が描かれているのならば、裏打ちするものがある分まだましだ。しかし、日本人的価値観もないのに日本人的な人物として描かれ、国体がはっきり描かれないか現実とは異なった国体で政治や軍事を扱った作品がありはしないか。
そのような作品は、現実世界と比べてみると、矛盾を感じる部分がありはしないだろうか。プロパガンダ的側面を持ってはいないだろうか。
たかがアニメで恐れ多いという自主規制的な部分はあるのかもしれないが、政治や軍事を扱った作品やその中でも表現が優れていると評される作品でさえ、国体はというと立憲君主制についてはほとんど登場しない。そこで登場するのは、専ら共和制と絶対君主制である。
現実において、民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家があり、日本もそのような国家であろう。ならば、本質を追求する誰かが、民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家を描いた作品を作ってもよいのだが、日本的価値観の登場人物の祖国やそのもの日本を描いた作品でさえほとんど登場しない。この意味する所は、作り手に特定の意図があるか、逆に全く無いかのどちらかのように思える。
政治や軍事を扱った作品の中でも、主人公達を日本人的な人物として描く場合は、国体がはっきり描かれなくとも、日本的価値観が描かれているのならば、裏打ちするものがある分まだましだ。しかし、日本人的価値観もないのに日本人的な人物として描かれ、国体がはっきり描かれないか現実とは異なった国体で政治や軍事を扱った作品がありはしないか。
そのような作品は、現実世界と比べてみると、矛盾を感じる部分がありはしないだろうか。プロパガンダ的側面を持ってはいないだろうか。
メモ-ロボットアニメの根底-
2010年5月3日 アンチプロパガンダロボットアニメを大きく分けると、専守防衛型と競争型と共存型とこれらの複合型に分けられる。
専守防衛型は敵に対してロボットでの防衛や反撃を行う。競争型はロボットを使って勝負を行う。共存型はロボットと共に暮らす。
恐らく、ロボットアニメと言えば、専守防衛型の作品を思い浮かべる人が多いだろう。今回は、専守防衛型のロボットアニメにおいて、ロボットとはどのような存在なのかを考えることで、ロボットアニメの根底を探る。
型を問わず、多くの作品において、ロボットは現在よりも進んだ技術や技術を超越した技術で作られており、主人公は少年や青年といった若者である。また、専守防衛型の作品では、ロボットの力が勝敗に影響する。つまり、ロボットとは力の象徴である。(より正確にいうと競争型の作品も含む)さらに、ロボットを操縦して何かを守るために敵と闘わなければならない。
次に、ロボットと主人公の関係を考えてみる。
多くの作品において、主人公は色々な偶然が重なってロボットを操縦することになる。また、ロボットを作った存在を大きく分けると、家族や先祖とその延長にある古代や現代の文明が作ったものと、神やそれに類する超越した存在が作ったものとに分けられる。(ほとんどは前者である)そして、主人公へのロボットの受け渡しに注目すると、受け渡しや操縦命令が明確に行われるか、既に行われている場合が多い。その上で、最終的にはロボットを主体的に操縦して専守防衛に努める。
つまり、専守防衛型の作品では、どのような経緯で誰が作ったものを操縦するかに相違はあるが、何者かの願いや命を受けて主体的に敵と闘う点が共通した作品だといえる。
ここで、ロボットが親族やその延長にある古代や現代の文明が作ったものであることについて考えてみる。
ほとんどの専守防衛型の作品における状況を省略せずに正確に述べると、「敵の出現に際し親族やその延長にある現代や古代の文明が作ったロボットを主人公が操縦することになる」といえる。そこでのロボットは主人公の少年に継承されているに等しい。また、現実の世界における少年が継承するものを考えると、自身も含めた命、家族や社会に国家といった共同体、公私を含めた財産、文化、伝統、歴史などが挙げられるだろう。加えて、それら継承したものに対して、権利と義務が生じていることを挙げておく。つまり、専守防衛型の作品におけるロボットとは、これまで少年が普遍的に継承してきたり、これからするであろうものの象徴であると考えられる。
ほとんどのロボットアニメは、家族や先祖、その仲間である現代や古代の文明から大いなる力を継承し、大いなる力を扱える権利で大いなる力を扱っての義務を果たすため、自らの意志を持って敵と闘うものだ。
専守防衛型は敵に対してロボットでの防衛や反撃を行う。競争型はロボットを使って勝負を行う。共存型はロボットと共に暮らす。
恐らく、ロボットアニメと言えば、専守防衛型の作品を思い浮かべる人が多いだろう。今回は、専守防衛型のロボットアニメにおいて、ロボットとはどのような存在なのかを考えることで、ロボットアニメの根底を探る。
型を問わず、多くの作品において、ロボットは現在よりも進んだ技術や技術を超越した技術で作られており、主人公は少年や青年といった若者である。また、専守防衛型の作品では、ロボットの力が勝敗に影響する。つまり、ロボットとは力の象徴である。(より正確にいうと競争型の作品も含む)さらに、ロボットを操縦して何かを守るために敵と闘わなければならない。
次に、ロボットと主人公の関係を考えてみる。
多くの作品において、主人公は色々な偶然が重なってロボットを操縦することになる。また、ロボットを作った存在を大きく分けると、家族や先祖とその延長にある古代や現代の文明が作ったものと、神やそれに類する超越した存在が作ったものとに分けられる。(ほとんどは前者である)そして、主人公へのロボットの受け渡しに注目すると、受け渡しや操縦命令が明確に行われるか、既に行われている場合が多い。その上で、最終的にはロボットを主体的に操縦して専守防衛に努める。
つまり、専守防衛型の作品では、どのような経緯で誰が作ったものを操縦するかに相違はあるが、何者かの願いや命を受けて主体的に敵と闘う点が共通した作品だといえる。
ここで、ロボットが親族やその延長にある古代や現代の文明が作ったものであることについて考えてみる。
ほとんどの専守防衛型の作品における状況を省略せずに正確に述べると、「敵の出現に際し親族やその延長にある現代や古代の文明が作ったロボットを主人公が操縦することになる」といえる。そこでのロボットは主人公の少年に継承されているに等しい。また、現実の世界における少年が継承するものを考えると、自身も含めた命、家族や社会に国家といった共同体、公私を含めた財産、文化、伝統、歴史などが挙げられるだろう。加えて、それら継承したものに対して、権利と義務が生じていることを挙げておく。つまり、専守防衛型の作品におけるロボットとは、これまで少年が普遍的に継承してきたり、これからするであろうものの象徴であると考えられる。
ほとんどのロボットアニメは、家族や先祖、その仲間である現代や古代の文明から大いなる力を継承し、大いなる力を扱える権利で大いなる力を扱っての義務を果たすため、自らの意志を持って敵と闘うものだ。
メモ-料理を題材にしたアニメに見る文化と心-
2010年5月2日 アンチプロパガンダ料理を題材にしたアニメを大きく分けると、日常における料理を扱った作品と、料理人における日常を扱った作品に分けられる。
日常における料理を扱った作品は『クッキングパパ』が挙げられる。この作品では、家族や職場とそこでの人間関係といった日常が描かれ、その中でキャラクターが料理を振舞う形であり、味を競うことはほぼない。
料理人における日常を扱った作品は『ミスター味っ子』が挙げられる。この作品では、大衆食堂の息子が料理人として、色々な料理勝負を経て成長していく姿が描かれている。
料理を題材にした勝負といっても、単に技術の勝る方が勝つのではない。独創性が勝負の分かれ目になることも多いが、根底にあるのは食べる人の喜びを追及しているかどうかの理念であり、如何に技術や独創性に優れていようとも理念無き者は敗れる。また、お互いに理念を追求した上での勝負や同じ求道者としての情が見所といえる。そこまで来ると、勝ち負けを決める意味が無いようにすら思えるが、勝ち負けを決める話は分かり易い点を挙げておきたい。
両者の相違点は、料理の味を競い、一応の勝ち負けを付けるかどうかだ。一方、共通点は、美味しい料理を作って食べてもらおうとする姿勢とそのための手間暇だ。
そこから考えると、相違点に挙げたものは、共通点に挙げたものを見せるための方法の違いであって、根の部分では同じテーマを持った作品だといえる。
別段、悪人や金儲け第一でも美味い料理が作れないわけではないのだが、勝負のあやとなるのが理念である点は、正々堂々の精神を体現したものであり、それが受け入れられる文化や価値観が背景にあると考えられる。要は、美味い料理を作ることは手段であり、目的は食べてもらう人の幸せにある。
なぜ、良いものをつくるのか。それは、享受する人に幸せを与えるからであり、そこに矜持があるからだ。
日常における料理を扱った作品は『クッキングパパ』が挙げられる。この作品では、家族や職場とそこでの人間関係といった日常が描かれ、その中でキャラクターが料理を振舞う形であり、味を競うことはほぼない。
料理人における日常を扱った作品は『ミスター味っ子』が挙げられる。この作品では、大衆食堂の息子が料理人として、色々な料理勝負を経て成長していく姿が描かれている。
料理を題材にした勝負といっても、単に技術の勝る方が勝つのではない。独創性が勝負の分かれ目になることも多いが、根底にあるのは食べる人の喜びを追及しているかどうかの理念であり、如何に技術や独創性に優れていようとも理念無き者は敗れる。また、お互いに理念を追求した上での勝負や同じ求道者としての情が見所といえる。そこまで来ると、勝ち負けを決める意味が無いようにすら思えるが、勝ち負けを決める話は分かり易い点を挙げておきたい。
両者の相違点は、料理の味を競い、一応の勝ち負けを付けるかどうかだ。一方、共通点は、美味しい料理を作って食べてもらおうとする姿勢とそのための手間暇だ。
そこから考えると、相違点に挙げたものは、共通点に挙げたものを見せるための方法の違いであって、根の部分では同じテーマを持った作品だといえる。
別段、悪人や金儲け第一でも美味い料理が作れないわけではないのだが、勝負のあやとなるのが理念である点は、正々堂々の精神を体現したものであり、それが受け入れられる文化や価値観が背景にあると考えられる。要は、美味い料理を作ることは手段であり、目的は食べてもらう人の幸せにある。
なぜ、良いものをつくるのか。それは、享受する人に幸せを与えるからであり、そこに矜持があるからだ。
対比と同一の合成
2010年5月1日 放送中のアニメの感想とか『さらい屋五葉』第2話
一人身で人付き合いに何のある主人公の政が、何だかんだで連帯というか居場所を見つけたことが原因で深みに嵌っていく過程をゆっくりと見せる中で、さらい屋の実体を見せていく。居場所の話は普遍の部類に入るのもあって、さらい屋と称する悪党家業を営んでいるのにもかかわらず和む。
ゆっくりとした展開の中で改めて気づいたが、弥一を男が惚れる男と思った要因は作中での色の使い方に拠る所もある。時代考証を考えてか、全体がハイライト押さえ気味の色彩であり、自然の紅葉の色以外は地味な色使いになっている。また、人物の黒髪や黒目といった黒の海に一人だけ白髪に白目といった白であることが対比として機能している。そこに不思議な素性と演者の力が加わったら、そりゃ格好良いですわ。
まあ、同時期の比べられる他の作品や比べられる数の作品を見ているから分かる側面もあるので、気軽な作品とは異なるかもしれない。
一人身で人付き合いに何のある主人公の政が、何だかんだで連帯というか居場所を見つけたことが原因で深みに嵌っていく過程をゆっくりと見せる中で、さらい屋の実体を見せていく。居場所の話は普遍の部類に入るのもあって、さらい屋と称する悪党家業を営んでいるのにもかかわらず和む。
ゆっくりとした展開の中で改めて気づいたが、弥一を男が惚れる男と思った要因は作中での色の使い方に拠る所もある。時代考証を考えてか、全体がハイライト押さえ気味の色彩であり、自然の紅葉の色以外は地味な色使いになっている。また、人物の黒髪や黒目といった黒の海に一人だけ白髪に白目といった白であることが対比として機能している。そこに不思議な素性と演者の力が加わったら、そりゃ格好良いですわ。
まあ、同時期の比べられる他の作品や比べられる数の作品を見ているから分かる側面もあるので、気軽な作品とは異なるかもしれない。
『四畳半神話大系』第1話
いきなり、独白での異性への恨み節を交えた回想に、神様や縁結びに変人の友人に気になる後輩と立て続けに押し寄せてくる始まり方だった。ありがちといえばありがちだが、愛だ恋だに背を向けた全速力のホモソーシャルで攻めてくるとは、愛だ恋だで引き付けた枠で本当に大冒険が始まったと狂喜乱舞するのかといえば、そんなことはなく、一つの思考過程として言い訳がましいながらも、遠からずな部分がある作りになっており聞き入った。
それを版画というか写実というかなデザインにハイライトの少ない色彩で仕上げたキャラクターがちょこまかしながら見せる。また、そんな画面に捲くし立てるような独白も加わるからか、激しくカメラやキャラが動いているのとは違った躍動感とういか息吹を感じた。
最後の最後に、時間の逆行というか、平行世界に繋がる構成であることを示す形になっていたのにも驚いた。こんな風に、仕掛けによる変化の可能性を最後の最後で提示するやり方だと、癖の強い中二男子的独白が受け付けない人は、既に脱落済みだったり仕掛けがあることが引きになり辛そうな感じがするけど、大丈夫かな。勿論、僕は大丈夫です。
いきなり、独白での異性への恨み節を交えた回想に、神様や縁結びに変人の友人に気になる後輩と立て続けに押し寄せてくる始まり方だった。ありがちといえばありがちだが、愛だ恋だに背を向けた全速力のホモソーシャルで攻めてくるとは、愛だ恋だで引き付けた枠で本当に大冒険が始まったと狂喜乱舞するのかといえば、そんなことはなく、一つの思考過程として言い訳がましいながらも、遠からずな部分がある作りになっており聞き入った。
それを版画というか写実というかなデザインにハイライトの少ない色彩で仕上げたキャラクターがちょこまかしながら見せる。また、そんな画面に捲くし立てるような独白も加わるからか、激しくカメラやキャラが動いているのとは違った躍動感とういか息吹を感じた。
最後の最後に、時間の逆行というか、平行世界に繋がる構成であることを示す形になっていたのにも驚いた。こんな風に、仕掛けによる変化の可能性を最後の最後で提示するやり方だと、癖の強い中二男子的独白が受け付けない人は、既に脱落済みだったり仕掛けがあることが引きになり辛そうな感じがするけど、大丈夫かな。勿論、僕は大丈夫です。
やっぱりか
2010年4月29日 放送中のアニメの感想とか『閃光のナイトレイド』第3話
肝心の能力者同士の闘いが機転で決まる見せ方や、サブタイトル通りに華やかなビッグフォーをバックに夕日が今後の展開予見させる〆方でまとまっていた。とりあえず、回を追う毎に外国語パートが少なくなって会話がしっかりしてきている。作中の設定が必要とする水準の語学力がなければ白けるのは当然だったといえるので、わざわざ難しい北京語だか広東語だかを演じる必要があったのかすら疑わしい。
このまま日本人同士のやり取りを中心に進んでくれると耳障りじゃなくて楽しめるかな。
肝心の能力者同士の闘いが機転で決まる見せ方や、サブタイトル通りに華やかなビッグフォーをバックに夕日が今後の展開予見させる〆方でまとまっていた。とりあえず、回を追う毎に外国語パートが少なくなって会話がしっかりしてきている。作中の設定が必要とする水準の語学力がなければ白けるのは当然だったといえるので、わざわざ難しい北京語だか広東語だかを演じる必要があったのかすら疑わしい。
このまま日本人同士のやり取りを中心に進んでくれると耳障りじゃなくて楽しめるかな。
溜めて放つ
2010年4月28日 放送中のアニメの感想とか『HEROMAN-ヒーローマン-』第4話
巨大なタマによる地上へのローラー作戦が実行される。住民の避難場所へと迫る中、あれやこれやの阻止行動に奮闘するヒーローマンだが、タマは巨大かつ破壊が困難であり、タマと対峙するヒーローマンが逆に破壊されそうになる。主人公の静止を振り切ってタマを止めようとするヒーローマンの姿と願いに呼応するかの如き巨大化の流れには、無機質なものに宿る意思が感じられた。宇宙人と交信する危険性やアメリカナイズなお洒落な雰囲気が目を引くが、アニメの本質にも繋がる無機質なものに意味を見出すことが根底にあるからこそ調和を保っていると思う。
あれだけ苦労したタマを大量に投下してきて続くってのも凄いが、予告の内容からしてヒーローの本質を問うような話になりそうだ。そんな風に、安直なネーミングで深い内容を見せることもアニメが培ってきたやり方だ。
巨大なタマによる地上へのローラー作戦が実行される。住民の避難場所へと迫る中、あれやこれやの阻止行動に奮闘するヒーローマンだが、タマは巨大かつ破壊が困難であり、タマと対峙するヒーローマンが逆に破壊されそうになる。主人公の静止を振り切ってタマを止めようとするヒーローマンの姿と願いに呼応するかの如き巨大化の流れには、無機質なものに宿る意思が感じられた。宇宙人と交信する危険性やアメリカナイズなお洒落な雰囲気が目を引くが、アニメの本質にも繋がる無機質なものに意味を見出すことが根底にあるからこそ調和を保っていると思う。
あれだけ苦労したタマを大量に投下してきて続くってのも凄いが、予告の内容からしてヒーローの本質を問うような話になりそうだ。そんな風に、安直なネーミングで深い内容を見せることもアニメが培ってきたやり方だ。
いつもそこにある
2010年4月27日 放送中のアニメの感想とか『イナズマイレブン』第78話
サブタイトルの「冬花の究極奥義大作戦!!」は半分正解で半分間違い。冬花が乗せられて円堂とのデートを観察されるのが作戦の実態。で、お互いが意識してしまってとベタな展開に流れるのかというと、そんなことはない。街を案内して回った後に、いつもの鉄塔下で夕日を一緒に見て、練習に付き合うことになる。原点であるこの場所で、新たな必殺技に繋がる糸口を見つけるのが気持ち良い。最後に、冬花が奥義の書かれたノートを読めることが分かり、影のある監督の父親共々今後の展開に関係してきそうだ。
サブタイトルの「冬花の究極奥義大作戦!!」は半分正解で半分間違い。冬花が乗せられて円堂とのデートを観察されるのが作戦の実態。で、お互いが意識してしまってとベタな展開に流れるのかというと、そんなことはない。街を案内して回った後に、いつもの鉄塔下で夕日を一緒に見て、練習に付き合うことになる。原点であるこの場所で、新たな必殺技に繋がる糸口を見つけるのが気持ち良い。最後に、冬花が奥義の書かれたノートを読めることが分かり、影のある監督の父親共々今後の展開に関係してきそうだ。
迷走
2010年4月26日 放送中のアニメの感想とか『遊戯王5D’s』第106話
シェリーにデレデレする牛尾の足を踏み付ける御影の行動がドキンちゃん気質だな。と、冗談はさておき、グランプリの目的が、ホイールによるモーメントでハイウェイで絵を書くこと、そのためにゴーストを投入してバトルロイヤルモードとやらで、出場者をクラッシュに追い込む展開になる。
バトルロイヤルモードが数に勝りロボットであるゴースト有利なだけでなく、多人数戦なのでより魅力に欠ける。そもそもライディングデュエルがあまり面白くないというのもあって、グランプリ編は迷走感が強い。やっぱりデュエルが面白いことが作品の面白さに繋がると思うので、必要な展開であってもさっさと終わって欲しい。
シェリーにデレデレする牛尾の足を踏み付ける御影の行動がドキンちゃん気質だな。と、冗談はさておき、グランプリの目的が、ホイールによるモーメントでハイウェイで絵を書くこと、そのためにゴーストを投入してバトルロイヤルモードとやらで、出場者をクラッシュに追い込む展開になる。
バトルロイヤルモードが数に勝りロボットであるゴースト有利なだけでなく、多人数戦なのでより魅力に欠ける。そもそもライディングデュエルがあまり面白くないというのもあって、グランプリ編は迷走感が強い。やっぱりデュエルが面白いことが作品の面白さに繋がると思うので、必要な展開であってもさっさと終わって欲しい。