【メモ】タイムリープ
2016年12月4日 メモ時をかける、死に戻り、何かの特殊能力名。
何でも良いが、要するにタイムリープ要素のある作品。
前回の時はどうだったとか、分岐がどうだとか、アドベンチャー的な展開だけど、視聴者の意思によって展開が変わる訳ではなく、かつ勝利や良い未来が必須となっている。
残酷で心が痛むとか、折れるとか、傷付くとか、切ないとか、それらは全てタイムリープで経験した記憶のある主人公と視聴者だけの経験である場合がほとんどで、見ていてうんざりする気持ちにさせられる展開でも、最後はタイムリープによって勝利や良い未来に辿り着く。
結果が決まっているのだから、過程が大事であり、ある程度は勢いで誤魔化せるかもしれないが、感情の機微で見せるような展開では、勢いと切なそうな展開で詰めの甘さに無自覚で詰めが甘く感じて白けることが多い。つまり、やるせなさを感じさせるか、作り込みの甘さから来る掛け違いと思われるかを分ける上で、行動や感情の連続においての整合性が大事。
何でも良いが、要するにタイムリープ要素のある作品。
前回の時はどうだったとか、分岐がどうだとか、アドベンチャー的な展開だけど、視聴者の意思によって展開が変わる訳ではなく、かつ勝利や良い未来が必須となっている。
残酷で心が痛むとか、折れるとか、傷付くとか、切ないとか、それらは全てタイムリープで経験した記憶のある主人公と視聴者だけの経験である場合がほとんどで、見ていてうんざりする気持ちにさせられる展開でも、最後はタイムリープによって勝利や良い未来に辿り着く。
結果が決まっているのだから、過程が大事であり、ある程度は勢いで誤魔化せるかもしれないが、感情の機微で見せるような展開では、勢いと切なそうな展開で詰めの甘さに無自覚で詰めが甘く感じて白けることが多い。つまり、やるせなさを感じさせるか、作り込みの甘さから来る掛け違いと思われるかを分ける上で、行動や感情の連続においての整合性が大事。
【メモ】作品の長所を把握するための3つの質問
2014年7月18日 メモ作品の良さを把握するための3つの質問。
原作がそんなに面白くないからとか、好みや自分が子供の頃の作品と物語の方向性が違うとか、自分に合う合わないとは別で、作品の長所を探すための方法。
・作品の概要を教えて下さい
現代以外が舞台の作品では舞台設定そのものが作品の長所である場合が多い。魔法のある世界は魔法が見所ではあるが、魔法描写自体に物語はなく魔法に対しキャラがどういう精神性で臨むかなどが物語を形成する。テンプレ作品であっても差別化に相当する部分があるはずなので、作品の概要を把握することは作品の長所を把握することに等しい。
例えテンプレ展開でも、主人公が車に引かれそうなイヌを助けるか、ネコを助けるかでは概念的には些細ながらもデザイン含めて差異である。同様に助け方においても全く同じではない。特に見た目に表れない心根に関わる差異についてはその作品らしい長所の場合が多い。目に見えないものを大切にする文化を大切にしよう。
・主人公の良い所とそれに関するエピソードを教えて下さい
第1話での掴みや物語の節目に影響する。ダークヒーローでも筋やら義理で納得行く部分は必ずあるはず、ないなら映像化の際に抜け落ちた可能性高し。
原作からの取捨選択のセンスを確かめる意味でも考えてみると分かりやすい。例えば、筋が通っているけど反感を抱くキャラなんかは嫌われることも多いが敵役としての魅力がある。それもこれも筋が通っているからである。筋が通っていないのに反感を抱かれるキャラは、単に原作からの取捨選択に失敗している場合も多い。結果だけ見せるのではなく、エピソードとして前提や過程が分かった上で結果を見せられた方がより感動的だ。
・その作品で一番人気、あるいは一番好きなキャラとそれを象徴するエピソードを教えて下さい
気に入られていたり、気に入っている部分の確認。好かれるからには何らかの良く思われるものがある。困っている人が居れば助けるだとか、悪は見過ごせないなどが連続する場面を通して論理的に表現された演出があるはず。現実に筋書きはないが、フィクションは用意された筋書きであり、そこからとらえたことがそのまま好みの理由である。見えていないものを見えているものから飛躍し過ぎずに想像を喚起させるさじ加減がご都合主義的であるか否かを分ける。
原作がそんなに面白くないからとか、好みや自分が子供の頃の作品と物語の方向性が違うとか、自分に合う合わないとは別で、作品の長所を探すための方法。
・作品の概要を教えて下さい
現代以外が舞台の作品では舞台設定そのものが作品の長所である場合が多い。魔法のある世界は魔法が見所ではあるが、魔法描写自体に物語はなく魔法に対しキャラがどういう精神性で臨むかなどが物語を形成する。テンプレ作品であっても差別化に相当する部分があるはずなので、作品の概要を把握することは作品の長所を把握することに等しい。
例えテンプレ展開でも、主人公が車に引かれそうなイヌを助けるか、ネコを助けるかでは概念的には些細ながらもデザイン含めて差異である。同様に助け方においても全く同じではない。特に見た目に表れない心根に関わる差異についてはその作品らしい長所の場合が多い。目に見えないものを大切にする文化を大切にしよう。
・主人公の良い所とそれに関するエピソードを教えて下さい
第1話での掴みや物語の節目に影響する。ダークヒーローでも筋やら義理で納得行く部分は必ずあるはず、ないなら映像化の際に抜け落ちた可能性高し。
原作からの取捨選択のセンスを確かめる意味でも考えてみると分かりやすい。例えば、筋が通っているけど反感を抱くキャラなんかは嫌われることも多いが敵役としての魅力がある。それもこれも筋が通っているからである。筋が通っていないのに反感を抱かれるキャラは、単に原作からの取捨選択に失敗している場合も多い。結果だけ見せるのではなく、エピソードとして前提や過程が分かった上で結果を見せられた方がより感動的だ。
・その作品で一番人気、あるいは一番好きなキャラとそれを象徴するエピソードを教えて下さい
気に入られていたり、気に入っている部分の確認。好かれるからには何らかの良く思われるものがある。困っている人が居れば助けるだとか、悪は見過ごせないなどが連続する場面を通して論理的に表現された演出があるはず。現実に筋書きはないが、フィクションは用意された筋書きであり、そこからとらえたことがそのまま好みの理由である。見えていないものを見えているものから飛躍し過ぎずに想像を喚起させるさじ加減がご都合主義的であるか否かを分ける。
【メモ】TCGとアニメ
2013年8月8日 メモTCGアニメの位置付けと内容を分類。
まとめ
・TCGとソフトウェアのリリースが似ている
・販促でアニメをやると止められない
・カードやゲーム自体のデザイン、特に初期のそれは大事
・カードデザインはアニメの内容にも影響を与える
・TCGアニメは相互作用が多く難しい
まずは、ざっとTCGの特徴から
・核となるゲームシステムとそれを反映した基本セットやスターターセットの発売から始まる
・新カードや新システムを含むブースターが発売
・特定のカードの禁止や制限、ルールの変更と明確化といった調整が行われる
・何度かブースターの発売や調整を繰り返し、ゲームシステムに変化をもたらせたカードや使われることが多いものを中心とした基本セットやスターターセットが発売される
例えるとゲームなんかのソフトウェアにおけるDLCやパッチ、ナンバリングタイトルに似ている。
では、TCGアニメの位置付け。
・TCGをアニメのキャラもの商品に見せる
・新規層の開拓
・認知度を上げる
・商品、特に新商品の販促
・認知度を保つ
TCGの特徴とTCGアニメの位置付けから考えると、TCGアニメはTCGを展開し続ける以上は放送し続けるを得ないと考えられる。なぜなら、カードショップに来ることもない新規予定層からすると、見なくなったものはないものと同じに扱われるからだ。別の側面から見れば、トレカのおまけに良質のゲーム要素を含んだ商品とでも位置付けられるか。
次の話題の前に発売後のTCGあるある。
・初期のカードでアドの過小評価やシステムの穴を付く壊れたカードが出る
・ルールの穴を突いた想定外のプレイングが発生
・他のカードゲーム経験者が大会荒らしになってしまう
・初期のカードが強過ぎて、新システムが霞む
・新システムがアドバンテージ面で既存システムを押しのける
・カード文面の不統一、ルールや大会運営における裁定の不正備でギスギス
・3年程度の間隔で進学や就職により大会参加層や客層が変化する
・サイクル落ちが上手く行かず廃れる
TCGアニメの内容を分類。
・主人公の日常や世界がどうだの物語を彩る従来の玩具販促型にする(世界>TCG)
・現実でワンサイドゲームになりやすい点をオリジナルルールで補う
・世界と同じ比重でTCGを扱う(世界≒TCG)
・実際の大会結果に関わらず、あくまで本編内では新規カードが活躍する
・本編同様に大会結果を残す水準の新規カードが活躍する
・大会サーキットのようなTCGプレイヤーのプレイヤー側面に焦点を当てる
TCGあるあるとTCGアニメの内容それぞれの分類からすると、カードデザインがTCGのゲーム面以外にもアニメの内容にも影響を与えることが伺える。例えば、初期のカードに多い簡潔で強力なカードに対し、弱くしておまけを付けて釣り合いを取ったつもりの下位互換の新規カードを出すことがあり、それを使えばデッキ構築に穴があるといえる。そんなデッキで世界を救う物語を展開されても、不真面目に見えるジレンマが付きまとう。
それでいて、アニメの制作側にはカードデザインの決裁権がないのだから通常の作劇よりも難しい面がある。これが、恐らく最もTCGアニメの障害と考えられる。物語におけるTCGの価値とは多くの場合、コミュニケーションツールや好みのカードで如何に勝つかといった価値よりは、従来の販促アニメ同様に勝つことそのもの価値であり、それを大きくすれば、実際のカードデザインにおける強弱との釣り合いが求められる。これは、デッキが取捨選択の上構築されるのだから、勝つという価値に比重をおけば当然のことだろう。
販促の面から見ると、新商品が売れやすく、かつ売れないと出す意味が薄れるのだが、TCGは相互作用のゲームなので、2号メカ乗り換えのような単純な市場淘汰が難しい。また、新規カードや新システム中心で順次アップデートしていく構造も、現実では使用可能な既存カードとの相互作用を含んでいるため、新規カードや新システムのみで行うアニメ本編では相互作用が伴うまでに時間が掛かる。この点は、原作ものに多く見られる盛り上がる前や上達する前の初期から始めることに似ている。β版のジレンマとでも呼んでおうか。おまけに理由が伺えない結果を自信満々に見せられないのと同様に、基本的にミスに言及がない場合は、完璧な試合内容を求められがちということも相まって要求水準がかなり高い。要は、いつもと同じ本気が人の心を動かすから大事ってこった。
まとめ
・TCGとソフトウェアのリリースが似ている
・販促でアニメをやると止められない
・カードやゲーム自体のデザイン、特に初期のそれは大事
・カードデザインはアニメの内容にも影響を与える
・TCGアニメは相互作用が多く難しい
まずは、ざっとTCGの特徴から
・核となるゲームシステムとそれを反映した基本セットやスターターセットの発売から始まる
・新カードや新システムを含むブースターが発売
・特定のカードの禁止や制限、ルールの変更と明確化といった調整が行われる
・何度かブースターの発売や調整を繰り返し、ゲームシステムに変化をもたらせたカードや使われることが多いものを中心とした基本セットやスターターセットが発売される
例えるとゲームなんかのソフトウェアにおけるDLCやパッチ、ナンバリングタイトルに似ている。
では、TCGアニメの位置付け。
・TCGをアニメのキャラもの商品に見せる
・新規層の開拓
・認知度を上げる
・商品、特に新商品の販促
・認知度を保つ
TCGの特徴とTCGアニメの位置付けから考えると、TCGアニメはTCGを展開し続ける以上は放送し続けるを得ないと考えられる。なぜなら、カードショップに来ることもない新規予定層からすると、見なくなったものはないものと同じに扱われるからだ。別の側面から見れば、トレカのおまけに良質のゲーム要素を含んだ商品とでも位置付けられるか。
次の話題の前に発売後のTCGあるある。
・初期のカードでアドの過小評価やシステムの穴を付く壊れたカードが出る
・ルールの穴を突いた想定外のプレイングが発生
・他のカードゲーム経験者が大会荒らしになってしまう
・初期のカードが強過ぎて、新システムが霞む
・新システムがアドバンテージ面で既存システムを押しのける
・カード文面の不統一、ルールや大会運営における裁定の不正備でギスギス
・3年程度の間隔で進学や就職により大会参加層や客層が変化する
・サイクル落ちが上手く行かず廃れる
TCGアニメの内容を分類。
・主人公の日常や世界がどうだの物語を彩る従来の玩具販促型にする(世界>TCG)
・現実でワンサイドゲームになりやすい点をオリジナルルールで補う
・世界と同じ比重でTCGを扱う(世界≒TCG)
・実際の大会結果に関わらず、あくまで本編内では新規カードが活躍する
・本編同様に大会結果を残す水準の新規カードが活躍する
・大会サーキットのようなTCGプレイヤーのプレイヤー側面に焦点を当てる
TCGあるあるとTCGアニメの内容それぞれの分類からすると、カードデザインがTCGのゲーム面以外にもアニメの内容にも影響を与えることが伺える。例えば、初期のカードに多い簡潔で強力なカードに対し、弱くしておまけを付けて釣り合いを取ったつもりの下位互換の新規カードを出すことがあり、それを使えばデッキ構築に穴があるといえる。そんなデッキで世界を救う物語を展開されても、不真面目に見えるジレンマが付きまとう。
それでいて、アニメの制作側にはカードデザインの決裁権がないのだから通常の作劇よりも難しい面がある。これが、恐らく最もTCGアニメの障害と考えられる。物語におけるTCGの価値とは多くの場合、コミュニケーションツールや好みのカードで如何に勝つかといった価値よりは、従来の販促アニメ同様に勝つことそのもの価値であり、それを大きくすれば、実際のカードデザインにおける強弱との釣り合いが求められる。これは、デッキが取捨選択の上構築されるのだから、勝つという価値に比重をおけば当然のことだろう。
販促の面から見ると、新商品が売れやすく、かつ売れないと出す意味が薄れるのだが、TCGは相互作用のゲームなので、2号メカ乗り換えのような単純な市場淘汰が難しい。また、新規カードや新システム中心で順次アップデートしていく構造も、現実では使用可能な既存カードとの相互作用を含んでいるため、新規カードや新システムのみで行うアニメ本編では相互作用が伴うまでに時間が掛かる。この点は、原作ものに多く見られる盛り上がる前や上達する前の初期から始めることに似ている。β版のジレンマとでも呼んでおうか。おまけに理由が伺えない結果を自信満々に見せられないのと同様に、基本的にミスに言及がない場合は、完璧な試合内容を求められがちということも相まって要求水準がかなり高い。要は、いつもと同じ本気が人の心を動かすから大事ってこった。
塗りの話。
まとめ
・深夜アニメには不要に塗りが暗めで華の無い作品がある
・ゴールデンのアニメはキャラの塗りが明るめで華やか
・明るめの塗りは同じ費用で効果的
暗い内容に暗い色というのは、匙加減次第で機能する分かりやすいやり方だ。だが、暗い内容でもないのに、何となく暗いとうか薄い色を使った作品がある。何と、つまらない作品のおよそ80%(当社調べという名の思い返し)が、この何となしに薄暗いという塗りに仕上がっているのだ。
それらをゴールデンに何年も続いている作品と比較してみると違いは顕著で、女の子一杯で華やかであるはずなのに何故か薄暗い深夜アニメ、対して販促や家族向けに温めの内容なのに明るい色が中心で華やかさが感じられるゴールデンのアニメ、両者の違いは一目瞭然だ。暗めの塗りでギャグとか、もう見てらんないのなんの。
原作の絵やイラストの塗りを継承しているのか、使っているソフトの特性なのかは分からないが、デジタル彩色になって色選択のセンスの違いが如実に現れているように思える。勿論、塗りが良くても、シナリオ、デザイン、音響、演者の選定、作画といった他の工程に問題があって駄目な場合もある。ただ、塗りに問題のある作品は大抵他の工程にも問題がある場合が多い。
つまり、明るめの塗りは華やかな印象に繋がる上、攻めと守りの両面から考えても、費用は同じで効果があると考えれば分かりやすかろう。
まとめ
・深夜アニメには不要に塗りが暗めで華の無い作品がある
・ゴールデンのアニメはキャラの塗りが明るめで華やか
・明るめの塗りは同じ費用で効果的
暗い内容に暗い色というのは、匙加減次第で機能する分かりやすいやり方だ。だが、暗い内容でもないのに、何となく暗いとうか薄い色を使った作品がある。何と、つまらない作品のおよそ80%(当社調べという名の思い返し)が、この何となしに薄暗いという塗りに仕上がっているのだ。
それらをゴールデンに何年も続いている作品と比較してみると違いは顕著で、女の子一杯で華やかであるはずなのに何故か薄暗い深夜アニメ、対して販促や家族向けに温めの内容なのに明るい色が中心で華やかさが感じられるゴールデンのアニメ、両者の違いは一目瞭然だ。暗めの塗りでギャグとか、もう見てらんないのなんの。
原作の絵やイラストの塗りを継承しているのか、使っているソフトの特性なのかは分からないが、デジタル彩色になって色選択のセンスの違いが如実に現れているように思える。勿論、塗りが良くても、シナリオ、デザイン、音響、演者の選定、作画といった他の工程に問題があって駄目な場合もある。ただ、塗りに問題のある作品は大抵他の工程にも問題がある場合が多い。
つまり、明るめの塗りは華やかな印象に繋がる上、攻めと守りの両面から考えても、費用は同じで効果があると考えれば分かりやすかろう。
【メモ】新番組、何を切る?
2013年1月9日 メモ多過ぎるアニメの新番組、何を切るか。必ずしも、OPやEDは本編の質と同じではないので、本編かそれに順ずるPVを見た印象が対象です。
まとめ
・暗めの色や暗い画面ばかりだと華がない
・暗いから暗いだけでは安易
・暗めの色や暗い画面が続き、他の要素で工夫が見られず華のない作品を切るべし
昔の作品に馴染みの薄いアニメファンは昔の作品を華がないと評することがある。内容が古典の域に入っているからとの見方もあるが、実際の話の描き方については今とさほど違いは無い。ならば何が違うのか、色である。かつては、やっと80色だかと増えていったアニメ用絵の具を混ぜたり薄めたりして塗って色を表現していた。今はCGでほぼ無制限である。また、今は原色に近い色よりも夢の国が如き明るい色が多く、目の前で見ている発光している画面に近いともいえる。つまりは、パッと見の画面が明るい印象の作品はそれだけで華があるともいえる。しかしながら、実際の人間の日常と比べれば、やや明る過ぎたり色合いが単調である。だからといって、例えば光源のない状況で輪郭だけが見える状態を詳細に再現したところで、情報が読み取りにくくなるだけであり、色合いを凝れば労力の浪費や省略表現から遠ざかり、描き絵の質感として不整合を生む。よって、闇雲に我々の日常の明るさや色合いの再現度を高めることがよいとはいえない。一方で、俯きのような光源への向きによる陰影や背景としての暗い心象や悪意の表現に暗い色や暗い画面を用いる演出法もある。例えば、キャラの死や陰鬱な場面で、一時的に曇天や雨といった実際に光源が無く暗い状況を用いるか、あるいは暗い作品であるからといって常時暗めの色や画面を暗くするかで変わってくる。前者は緩急として受け取れるが、後者は華がない印象に繋がる可能性がある。では、どういう時に華がない印象になるのかだが、成功した作品の逆を考えることで見て取れる。成功した作品は、話や設定の仕掛け、話や設定の整合性、演者の力量やキャラデに委ねたキャラ押し、場面に合わせた音響、雰囲気といった要素で暗めの色や暗い画面を活かしたり華を補わせている。たまにあるパッと見が地味でも面白い作品は、シナリオや台詞回しの華ゆえのことだが、そうした要素が特段優れていることはほとんどない。
これら以外の要素も華は生み出せるはずだが、創意工夫無くしてはそれも難しいところだ。要するに、シナリオや台詞回しが特段優れた作品が希なので、成功例の強みを取り入れず、新しい演出に挑戦するといった創意工夫も見られず、暗めの色や暗い画面が続く作品は、過去作の上辺だけをなぞったに過ぎなかったり、見応えが無い場合が多いので切るべしとの仮説に至る。仮説に該当する作品構造を想定するとすれば、生まれ、育ち、性質や状況等が暗いのに合わせて暗い色や暗い画面を多用する作品の内、他の要素で創意工夫の見込みの無いものといったところか。該当する作品でも楽しめるものはそれなりに思い浮かぶので、結局は工夫次第ってことですな。
まとめ
・暗めの色や暗い画面ばかりだと華がない
・暗いから暗いだけでは安易
・暗めの色や暗い画面が続き、他の要素で工夫が見られず華のない作品を切るべし
昔の作品に馴染みの薄いアニメファンは昔の作品を華がないと評することがある。内容が古典の域に入っているからとの見方もあるが、実際の話の描き方については今とさほど違いは無い。ならば何が違うのか、色である。かつては、やっと80色だかと増えていったアニメ用絵の具を混ぜたり薄めたりして塗って色を表現していた。今はCGでほぼ無制限である。また、今は原色に近い色よりも夢の国が如き明るい色が多く、目の前で見ている発光している画面に近いともいえる。つまりは、パッと見の画面が明るい印象の作品はそれだけで華があるともいえる。しかしながら、実際の人間の日常と比べれば、やや明る過ぎたり色合いが単調である。だからといって、例えば光源のない状況で輪郭だけが見える状態を詳細に再現したところで、情報が読み取りにくくなるだけであり、色合いを凝れば労力の浪費や省略表現から遠ざかり、描き絵の質感として不整合を生む。よって、闇雲に我々の日常の明るさや色合いの再現度を高めることがよいとはいえない。一方で、俯きのような光源への向きによる陰影や背景としての暗い心象や悪意の表現に暗い色や暗い画面を用いる演出法もある。例えば、キャラの死や陰鬱な場面で、一時的に曇天や雨といった実際に光源が無く暗い状況を用いるか、あるいは暗い作品であるからといって常時暗めの色や画面を暗くするかで変わってくる。前者は緩急として受け取れるが、後者は華がない印象に繋がる可能性がある。では、どういう時に華がない印象になるのかだが、成功した作品の逆を考えることで見て取れる。成功した作品は、話や設定の仕掛け、話や設定の整合性、演者の力量やキャラデに委ねたキャラ押し、場面に合わせた音響、雰囲気といった要素で暗めの色や暗い画面を活かしたり華を補わせている。たまにあるパッと見が地味でも面白い作品は、シナリオや台詞回しの華ゆえのことだが、そうした要素が特段優れていることはほとんどない。
これら以外の要素も華は生み出せるはずだが、創意工夫無くしてはそれも難しいところだ。要するに、シナリオや台詞回しが特段優れた作品が希なので、成功例の強みを取り入れず、新しい演出に挑戦するといった創意工夫も見られず、暗めの色や暗い画面が続く作品は、過去作の上辺だけをなぞったに過ぎなかったり、見応えが無い場合が多いので切るべしとの仮説に至る。仮説に該当する作品構造を想定するとすれば、生まれ、育ち、性質や状況等が暗いのに合わせて暗い色や暗い画面を多用する作品の内、他の要素で創意工夫の見込みの無いものといったところか。該当する作品でも楽しめるものはそれなりに思い浮かぶので、結局は工夫次第ってことですな。
【メモ】二番手、その先へ
2012年12月26日 メモバトル作品において主人公の最初期や作品全体を通しての好敵手、あるいはボスから仲間になったキャラ、いわゆる二番手の扱いと限界について。
まとめ
・TCGは他の玩具と比べて文面が存在するので定量的
・二番手にゲームで負けそうになったボスが盤外戦で勝つのは大人気ない
・二番手とボスの闘いにも一工夫欲しい
徒手や武装、あるいは玩具やゲームを使ったバトル作品において、ボスと世界の命運を背負って闘い倒すのは主人公と相場が決まっている。そこでは二番手の力の有無に限らず、ボスをどれ程追い込もうとも必ず負ける展開が待っている。例外として、ボスが複数居る場合は倒せることもあるが、最後に残った一番強い奴に勝つのは主人公だ。盛り上がるやり方ではあるのだが、近年限界を呈してきたように思える。というのも、ゲームのルールに従って闘う作品は過去にもあったが、TCGが定着したからだ。従来作品であれば、思いの強さに応じて肉体や玩具が速くなったり強くなったりする観念的要素が定番であった。TCGが他の玩具と違うのは、カードの文面という定量化かされた作用で勝利を収める点である。カード文面が思いの強さに応じて変化することは現実的ではないからだ。精々従来作品のやり方で出来ているのは、思いの強さでトップデッキしたように見せる位だ。また、現実では最強デッキでも無作為化されており、思いの強さだけではどうにもならないどうやっても負ける引きが存在する。勿論、そんな酷過ぎる事故負けを見せられても現実味はあるが面白みはないので、描かれることはほぼないといってよい。
次に、二番手とボスとの闘いにおいて重要なことは、主人公に対し思いを託して如何に負けさせるかにある。では、TCG作品での負け方について幾つか挙げてみよう。「異能の力や伝説の玩具によるゲームルールでの負け」「異能の力や伝説の玩具による精神攻撃のような盤外負け」「異能の力や伝説の玩具によるゲームルール及び盤外両面での負け」「最善を尽くすも引きが呼応せず負け」などである。要するに、「異能の力や伝説の玩具」の力による勝利が大半である。この中で、一番微妙だと感じるのは「異能の力や伝説の玩具による精神攻撃のような盤外負け」である。それは、異能の力や伝説の玩具といった圧倒的な暴力を備えたボスが、世界の命運をゲームの勝敗に託すという不合理な行為そのものに対する否定だからである。現実において、最後は暴力なのは疑いようも無い事実ではあるが、どんな世界観の設定であっても販促物でのバトルの勝敗に重きを置くのが玩具販促の流儀である。それに反するのだ。
二番手が世界を救うような作品は極めて稀ではあるが、TCGのような運要素を含んだゲームにおいては、二番手の実力でも強者たるボスに勝つ可能性がある以上、道理を歪めて主人公とボスを闘わせるためとしか思えない不合理な負けを二番手に強いるのではなく、その先の新たなるやり方が見たいものだ。準決勝で二番手が勝って主人公と決勝で闘うのは作品の終了を意味するのかもしれないが、いい加減にテレビ本編でも一目おかれる二番手が引き立て役を脱しても良いのではないだろうか。終生の好敵手かと思ったらぽっと出に負けるってのも定番化しているが、負け方に一工夫欲しいところだ。
まとめ
・TCGは他の玩具と比べて文面が存在するので定量的
・二番手にゲームで負けそうになったボスが盤外戦で勝つのは大人気ない
・二番手とボスの闘いにも一工夫欲しい
徒手や武装、あるいは玩具やゲームを使ったバトル作品において、ボスと世界の命運を背負って闘い倒すのは主人公と相場が決まっている。そこでは二番手の力の有無に限らず、ボスをどれ程追い込もうとも必ず負ける展開が待っている。例外として、ボスが複数居る場合は倒せることもあるが、最後に残った一番強い奴に勝つのは主人公だ。盛り上がるやり方ではあるのだが、近年限界を呈してきたように思える。というのも、ゲームのルールに従って闘う作品は過去にもあったが、TCGが定着したからだ。従来作品であれば、思いの強さに応じて肉体や玩具が速くなったり強くなったりする観念的要素が定番であった。TCGが他の玩具と違うのは、カードの文面という定量化かされた作用で勝利を収める点である。カード文面が思いの強さに応じて変化することは現実的ではないからだ。精々従来作品のやり方で出来ているのは、思いの強さでトップデッキしたように見せる位だ。また、現実では最強デッキでも無作為化されており、思いの強さだけではどうにもならないどうやっても負ける引きが存在する。勿論、そんな酷過ぎる事故負けを見せられても現実味はあるが面白みはないので、描かれることはほぼないといってよい。
次に、二番手とボスとの闘いにおいて重要なことは、主人公に対し思いを託して如何に負けさせるかにある。では、TCG作品での負け方について幾つか挙げてみよう。「異能の力や伝説の玩具によるゲームルールでの負け」「異能の力や伝説の玩具による精神攻撃のような盤外負け」「異能の力や伝説の玩具によるゲームルール及び盤外両面での負け」「最善を尽くすも引きが呼応せず負け」などである。要するに、「異能の力や伝説の玩具」の力による勝利が大半である。この中で、一番微妙だと感じるのは「異能の力や伝説の玩具による精神攻撃のような盤外負け」である。それは、異能の力や伝説の玩具といった圧倒的な暴力を備えたボスが、世界の命運をゲームの勝敗に託すという不合理な行為そのものに対する否定だからである。現実において、最後は暴力なのは疑いようも無い事実ではあるが、どんな世界観の設定であっても販促物でのバトルの勝敗に重きを置くのが玩具販促の流儀である。それに反するのだ。
二番手が世界を救うような作品は極めて稀ではあるが、TCGのような運要素を含んだゲームにおいては、二番手の実力でも強者たるボスに勝つ可能性がある以上、道理を歪めて主人公とボスを闘わせるためとしか思えない不合理な負けを二番手に強いるのではなく、その先の新たなるやり方が見たいものだ。準決勝で二番手が勝って主人公と決勝で闘うのは作品の終了を意味するのかもしれないが、いい加減にテレビ本編でも一目おかれる二番手が引き立て役を脱しても良いのではないだろうか。終生の好敵手かと思ったらぽっと出に負けるってのも定番化しているが、負け方に一工夫欲しいところだ。
【メモ】OPその後に
2012年12月16日 メモOP後のCMでのザッピング、直ぐ消したい。と、トイレの後に使うあれ風に始めてみたが、今回は近年見られるようになったOPの後に直ぐAパートが始まる形式の話。
まとめ
・OP後に直ぐAパートが始まるのは待ち時間のザッピング防止になる
・提供クレジットが無いので曲が尻下がりだと本編への入りが微妙になる
・Aパートの始まり方を工夫してあればOPの悪印象を跳ね除けられる
OP後に直ぐAパートが始まれば、視聴者の視聴が定着しやすいのは想像に難くない。要するに、本編を求めている視聴者にとっては、大抵のCMは需要を喚起されない限り不要な待ち時間である。
別の側面から考えてみる。従来の定着している方式ではOPの後には提供クレジットがある。この提供クレジットはバックにOPのBGMアレンジや本編BGMが掛かる場合が多い。何気ないことではあるが、直ぐAパート形式と比べてみると、OPの終わり方によらず本編に向けて気持ちを高める印象を受ける。つまり、クソタイアップだとか、尻下がりの曲でも、提供クレジットで一旦体勢を整えてから、CMで散らして本編に入ることで、盛り上がりに欠ける印象を紛らわせているのではないかということだ。これが直ぐAパート形式だと、本編の入りに対しての影響がより直接的にあると見るのが今回の発見。また、Aパートの始まり方にも少し派生があって、サブタイトル出しのタイミングや読み上げの有無や専用BGMの有無といった点でも印象が異なる。つまり、理想は本編に対しての相乗効果の見込めるOPだが、リスクを分散するという意味ではOPの印象によらない本編独自の印象を与えるAパートの始まり方があると良いのではないだろうか。
まとめ
・OP後に直ぐAパートが始まるのは待ち時間のザッピング防止になる
・提供クレジットが無いので曲が尻下がりだと本編への入りが微妙になる
・Aパートの始まり方を工夫してあればOPの悪印象を跳ね除けられる
OP後に直ぐAパートが始まれば、視聴者の視聴が定着しやすいのは想像に難くない。要するに、本編を求めている視聴者にとっては、大抵のCMは需要を喚起されない限り不要な待ち時間である。
別の側面から考えてみる。従来の定着している方式ではOPの後には提供クレジットがある。この提供クレジットはバックにOPのBGMアレンジや本編BGMが掛かる場合が多い。何気ないことではあるが、直ぐAパート形式と比べてみると、OPの終わり方によらず本編に向けて気持ちを高める印象を受ける。つまり、クソタイアップだとか、尻下がりの曲でも、提供クレジットで一旦体勢を整えてから、CMで散らして本編に入ることで、盛り上がりに欠ける印象を紛らわせているのではないかということだ。これが直ぐAパート形式だと、本編の入りに対しての影響がより直接的にあると見るのが今回の発見。また、Aパートの始まり方にも少し派生があって、サブタイトル出しのタイミングや読み上げの有無や専用BGMの有無といった点でも印象が異なる。つまり、理想は本編に対しての相乗効果の見込めるOPだが、リスクを分散するという意味ではOPの印象によらない本編独自の印象を与えるAパートの始まり方があると良いのではないだろうか。
【メモ】作為に無作為は宿るか
2012年12月3日 メモ九十九神から無感情キャラ、アニメ化という作為に対し宿る無作為。
およそ創作とは意図をもって行う作為であり、時折意図とは異なるか、あるいはそれ以上の効果の無作為であるかのように思えるものが現れる。
「犬も歩けば棒に当たる」を例に挙げると、実写では犬が歩いて棒に当たるようにするなりして撮れるのを待つことになる。一方で、アニメでは犬が歩いて棒に当たるように作る。両者は結果こそ同じだが、作為の度合いが異なるといえる。また、作為が過ぎると、わざとらしく感じられる。
別の例だと、九十九神的に見受けられる人工知能や人造人間のようなものも含めた無感情キャラは作為そのものであるが、そこに本来はないであろう自我という無作為が宿ることを愛おしく思う。これは作為に宿る無作為とでも定義しよう。ただし、その作為が過ぎるように感じる人もおり、かつ、宿る無作為が斬新で慣れに時間が掛かる場合もある。そして、無感情キャラは棒読み的でも良いが、どこかで自我を感じさせるものを求められることがあり、その場合は演者に腕を要求する役柄といえよう。
他の例としては、アニメ化という作為に対し、毎週の積み重ねを経て結実する感動という無作為が挙げられる。ただし、それが得られるかは未知数であり、感動という無作為は人により千差万別であり、原作での感動や世の評判によらず、自分が楽しめることを願うのみである。
およそ創作とは意図をもって行う作為であり、時折意図とは異なるか、あるいはそれ以上の効果の無作為であるかのように思えるものが現れる。
「犬も歩けば棒に当たる」を例に挙げると、実写では犬が歩いて棒に当たるようにするなりして撮れるのを待つことになる。一方で、アニメでは犬が歩いて棒に当たるように作る。両者は結果こそ同じだが、作為の度合いが異なるといえる。また、作為が過ぎると、わざとらしく感じられる。
別の例だと、九十九神的に見受けられる人工知能や人造人間のようなものも含めた無感情キャラは作為そのものであるが、そこに本来はないであろう自我という無作為が宿ることを愛おしく思う。これは作為に宿る無作為とでも定義しよう。ただし、その作為が過ぎるように感じる人もおり、かつ、宿る無作為が斬新で慣れに時間が掛かる場合もある。そして、無感情キャラは棒読み的でも良いが、どこかで自我を感じさせるものを求められることがあり、その場合は演者に腕を要求する役柄といえよう。
他の例としては、アニメ化という作為に対し、毎週の積み重ねを経て結実する感動という無作為が挙げられる。ただし、それが得られるかは未知数であり、感動という無作為は人により千差万別であり、原作での感動や世の評判によらず、自分が楽しめることを願うのみである。
【メモ】おかゆ炎上の件
2012年11月24日 メモ『さくら荘のペットな彼女』のおかゆが越えた一線。
病人に出すおかゆを見映えさせるためだが何だか知らないが、油っぽいであろう鶏丸ごとのおかゆっぽい韓国料理だかに変更したことが、演出として下の下だとは改めて振れるまでもないが、何がそこまで苛立たせるのかについての解釈。
まとめ
・越境者への嫉妬と憧憬を扱った作品は特に最後の一線は真面目に
・失策やそれによるがっかりは良い経験を悪い経験へと塗り替える
まず、この作品はよくある学生の主人公がヒロインに惚れた腫れたの類の作品である。主人公が惚れられるに足る理由としては、捨て猫の面倒を見るために変人揃いと気味悪がられている「さくら荘」という寮に引っ越すような献身さにある。
また、さくら荘に揃う変人は、オタク系業界での実績宜しい才能の持ち主達である。トキワ荘的な一刻館といったところか。そこへ特に才能があるでもなく成り行きで住むことになった主人公は振り回される毎日や己の才能の無さへの後ろめたさから形ばかりの脱さくら荘を掲げている。そんな日々に飛び切りポンコツで微妙に下手っぴな漫画を描くヒロインが越してきて、主人公が世話係を命じられ、同類の登場にホッとしていたら、現代絵画の天才だったな展開から始まるドタバタラブコメといった作品だ。
強みとなる点は、主人公のさくら荘に集った越境者達への嫉妬と憧憬からの立ち回りを根底に描いていることであり、それが受け手にとってそれぞれ重ね合わせやすい。
炎上だけ取って見れば、韓国だとかへの不快感だとかネトウヨだとか、不自然で寒いクソ演出乙といった野次馬的な乗っかりによるところが大きいかもしれない。
しかしながら、何故今回の件が炎上に繋がる苛立ちを招いたかといえば、ステマの是非抜きに出しにされることやつまらない媚びにしか見えない類の演出であったこと。あるいは、それらによって原作や作品を損ねたことが原因である。作品を損ねるということは、受け手にとっての越境者ともいえる作り手によって成されている不作為的所業に対する怒りを招く。なおかつ、時間に余裕があるか、それなりに見る気を持っていないと続かないであろう6話まで視聴を続けていた作品という経験が、6話まで視聴を続けていたクソ演出作品という経験に塗り替えられたのだから腹立たしいのは当然といえよう。ただでさえ越境者達への嫉妬と憧憬を扱う上にオタク系業界となれば殊更だ。更に今回の場合は、原作者の心を折って新刊無期限延期を招く可能性もあるだけにより重たい。
以上が、便乗愉快でない視聴者の怒りの源泉についての一つの解釈だ。
病人に出すおかゆを見映えさせるためだが何だか知らないが、油っぽいであろう鶏丸ごとのおかゆっぽい韓国料理だかに変更したことが、演出として下の下だとは改めて振れるまでもないが、何がそこまで苛立たせるのかについての解釈。
まとめ
・越境者への嫉妬と憧憬を扱った作品は特に最後の一線は真面目に
・失策やそれによるがっかりは良い経験を悪い経験へと塗り替える
まず、この作品はよくある学生の主人公がヒロインに惚れた腫れたの類の作品である。主人公が惚れられるに足る理由としては、捨て猫の面倒を見るために変人揃いと気味悪がられている「さくら荘」という寮に引っ越すような献身さにある。
また、さくら荘に揃う変人は、オタク系業界での実績宜しい才能の持ち主達である。トキワ荘的な一刻館といったところか。そこへ特に才能があるでもなく成り行きで住むことになった主人公は振り回される毎日や己の才能の無さへの後ろめたさから形ばかりの脱さくら荘を掲げている。そんな日々に飛び切りポンコツで微妙に下手っぴな漫画を描くヒロインが越してきて、主人公が世話係を命じられ、同類の登場にホッとしていたら、現代絵画の天才だったな展開から始まるドタバタラブコメといった作品だ。
強みとなる点は、主人公のさくら荘に集った越境者達への嫉妬と憧憬からの立ち回りを根底に描いていることであり、それが受け手にとってそれぞれ重ね合わせやすい。
炎上だけ取って見れば、韓国だとかへの不快感だとかネトウヨだとか、不自然で寒いクソ演出乙といった野次馬的な乗っかりによるところが大きいかもしれない。
しかしながら、何故今回の件が炎上に繋がる苛立ちを招いたかといえば、ステマの是非抜きに出しにされることやつまらない媚びにしか見えない類の演出であったこと。あるいは、それらによって原作や作品を損ねたことが原因である。作品を損ねるということは、受け手にとっての越境者ともいえる作り手によって成されている不作為的所業に対する怒りを招く。なおかつ、時間に余裕があるか、それなりに見る気を持っていないと続かないであろう6話まで視聴を続けていた作品という経験が、6話まで視聴を続けていたクソ演出作品という経験に塗り替えられたのだから腹立たしいのは当然といえよう。ただでさえ越境者達への嫉妬と憧憬を扱う上にオタク系業界となれば殊更だ。更に今回の場合は、原作者の心を折って新刊無期限延期を招く可能性もあるだけにより重たい。
以上が、便乗愉快でない視聴者の怒りの源泉についての一つの解釈だ。
敵の親玉、まとめて魔王の話。
まとめ
・魔王の代表的な二種、絶対型、相対型
・絶対型は純粋悪、相対型は正義の裏返し
・絶対型の魅力は、力と悪を背負い倒されるべき存在感
・相対型の魅力は、正義が裏返る過程と悲哀
・魔王の存在は物語を盛り上げる
魔王を大別し、生来の気質から世界支配、あるいは人類殲滅を試みようとするもの、運命から世界そのものの破壊、あるいは破滅を目論むものに分けて考える。
前者を絶対型、後者を相対型とでも定義しておこう。
絶対型の魔王は、生来の圧倒的な力や才覚を背景としている場合が多く、非力なものを蹂躙しても平気な精神を持ち合わせている。倒される理由も明確で壁としても分かりやすい。
一方、相対型の魔王は、魔王とはいっても生粋とは呼び難く、非力なものを蹂躙しても平気な精神を持ち合わせているような人間の業に対し、叡智を授けることが出来ない己に対する憤りと自身も含めた世界への罰を与える代行者としての側面を持っている。正義の方向や行使が他人を不幸に陥れるともいえよう。盗人にも三分の理といった呈で一方的に断罪するのも難しく、人間の不条理の裏返しともいえる側面を持ち合わせている。
絶対型の魔王の魅力は、圧倒的な力とこの世の悪逆を一手に引き受け倒される役割に対する存在感が挙げられる。
一方、相対型の魔王の魅力は、人間の持つ業や正義の屈折から己自身への憤りへと至る過程や、そうなる以前との対比、そこにある悲哀や不条理が挙げられる。
どちらにせよ敵としての魔王の存在が物語を面白く出来ることは間違いない。
まとめ
・魔王の代表的な二種、絶対型、相対型
・絶対型は純粋悪、相対型は正義の裏返し
・絶対型の魅力は、力と悪を背負い倒されるべき存在感
・相対型の魅力は、正義が裏返る過程と悲哀
・魔王の存在は物語を盛り上げる
魔王を大別し、生来の気質から世界支配、あるいは人類殲滅を試みようとするもの、運命から世界そのものの破壊、あるいは破滅を目論むものに分けて考える。
前者を絶対型、後者を相対型とでも定義しておこう。
絶対型の魔王は、生来の圧倒的な力や才覚を背景としている場合が多く、非力なものを蹂躙しても平気な精神を持ち合わせている。倒される理由も明確で壁としても分かりやすい。
一方、相対型の魔王は、魔王とはいっても生粋とは呼び難く、非力なものを蹂躙しても平気な精神を持ち合わせているような人間の業に対し、叡智を授けることが出来ない己に対する憤りと自身も含めた世界への罰を与える代行者としての側面を持っている。正義の方向や行使が他人を不幸に陥れるともいえよう。盗人にも三分の理といった呈で一方的に断罪するのも難しく、人間の不条理の裏返しともいえる側面を持ち合わせている。
絶対型の魔王の魅力は、圧倒的な力とこの世の悪逆を一手に引き受け倒される役割に対する存在感が挙げられる。
一方、相対型の魔王の魅力は、人間の持つ業や正義の屈折から己自身への憤りへと至る過程や、そうなる以前との対比、そこにある悲哀や不条理が挙げられる。
どちらにせよ敵としての魔王の存在が物語を面白く出来ることは間違いない。
【メモ】カタルシスに至る道
2012年7月27日 メモ罪と罰、罪と恥の比較から見る物語におけるカタルシスとアニメのアンチヒーロー。己の羞恥心は棚上げして書いた。なんという矛盾。
まとめ
・罪は償えたとしているが、恥は消え難い
・罪も恥であり、恥も罪である
・相手に罪悪感を与えることで、己の罪を代償したつもりの連中がいる
・カタルシスは代償行為の側面がある
・代償行為には追承認するもの、天に対する恥への罰を与えるものがある
・前者は時に詭弁や欺瞞を含み、後者は含まないため趣が大きく異なる
・勧善懲悪は根本を後者に属す、ゆえに根強い
・羞恥心のないアンチヒーローは失敗に繋がる
まずは、罪と罰といえば、同名の文学作品もある程に対義として扱われる。信賞必罰における必罰に見られるように、相応の行いには相応の罰が伴ってしかるべきと捉えがちだろう。
では、罪とは何か。それは、法に背くこと。端的に挙げればそうなるが、法といっても神の教えに基づいたもの、日本的にいえば天に人の道に対するものとなる。罰とは法に背いたことによって受ける報いとなる。
次に、罪と恥について。罪の文化と恥の文化などと対比されることもある。両者は似ているようだが違うものだろうか。
罪については、先ほど述べたので割愛する。恥については、世の東西を問わず、高貴と評される者程気にするものと考えられる。恥を受けることは、屈辱であり、一度受けた屈辱が晴れることはあっても消えることはない。
別の側面から考えてみる。罪に対する罰を受けることで償いを終えたとするような節がある。あるいは、罰的な状況が続くようであれば、受難だとか償えていないと見るだろうか。一方で、罪とは恥と同じであり、恥を償うことは決して出来はしないとの見方もある。もしくは、世に対し償ったところで消えない事実として己に課せられる。法とは異なり、己一つで可逆的に幾らでも罪悪感を抱くことが出来る。つまりは、罪も恥であり、恥も罪であるといえる。
よって、天に恥ずべきことを行いながら、罪ならないとほざく輩は、恥という名の罪を犯しているといえよう。あまつさえ、無辜を大量に殺しておきながら、勝ったので法を曲げて許されたとし、己の罪を相手に罪悪感と罪を与えて代償しようとするだとか、勝ち馬に乗っておきながら、負けた途端に掌返しで鞭を打った癖に被害者面するといった類のことは、天に恥じるべき罪であり、恥であるため決して失せることはない。
やや脱線したが、今度は物語におけるカタルシスを考える。カタルシスは浄化を意味する語であり、代償行為によって得られる満足を指す場合もある。早い話がスッとするってことだ。スッとするといっても、人生、あるいは国家的物語の追承認と、天に恥ずべき輩に与えられる罰とでは、天と地程の差があろう。前者は、時に先に挙げた罪悪感を相手に与える代償行為のような己の恥や罪を覆い隠すための詭弁や欺瞞を含むが、後者は悪辣という人間臭さを伴わない冷酷さを孕むものの、普遍的道徳の顕現と代行であり、詭弁や欺瞞は微塵もない。根本を後者に属するゆえ、勧善懲悪は根強い。
最後にアニメのアンチヒーローとの関係だが、天に対し恥ずべき己に対する羞恥心がないままで、詭弁要素を伴ったカタルシスを描くと腑に落ちない場合が多い。残念ながら、微塵も匂わせるのに成功していない羞恥心を補完出来るのは、余程惹かれたファン以外には出来ないことを挙げておく。
まとめ
・罪は償えたとしているが、恥は消え難い
・罪も恥であり、恥も罪である
・相手に罪悪感を与えることで、己の罪を代償したつもりの連中がいる
・カタルシスは代償行為の側面がある
・代償行為には追承認するもの、天に対する恥への罰を与えるものがある
・前者は時に詭弁や欺瞞を含み、後者は含まないため趣が大きく異なる
・勧善懲悪は根本を後者に属す、ゆえに根強い
・羞恥心のないアンチヒーローは失敗に繋がる
まずは、罪と罰といえば、同名の文学作品もある程に対義として扱われる。信賞必罰における必罰に見られるように、相応の行いには相応の罰が伴ってしかるべきと捉えがちだろう。
では、罪とは何か。それは、法に背くこと。端的に挙げればそうなるが、法といっても神の教えに基づいたもの、日本的にいえば天に人の道に対するものとなる。罰とは法に背いたことによって受ける報いとなる。
次に、罪と恥について。罪の文化と恥の文化などと対比されることもある。両者は似ているようだが違うものだろうか。
罪については、先ほど述べたので割愛する。恥については、世の東西を問わず、高貴と評される者程気にするものと考えられる。恥を受けることは、屈辱であり、一度受けた屈辱が晴れることはあっても消えることはない。
別の側面から考えてみる。罪に対する罰を受けることで償いを終えたとするような節がある。あるいは、罰的な状況が続くようであれば、受難だとか償えていないと見るだろうか。一方で、罪とは恥と同じであり、恥を償うことは決して出来はしないとの見方もある。もしくは、世に対し償ったところで消えない事実として己に課せられる。法とは異なり、己一つで可逆的に幾らでも罪悪感を抱くことが出来る。つまりは、罪も恥であり、恥も罪であるといえる。
よって、天に恥ずべきことを行いながら、罪ならないとほざく輩は、恥という名の罪を犯しているといえよう。あまつさえ、無辜を大量に殺しておきながら、勝ったので法を曲げて許されたとし、己の罪を相手に罪悪感と罪を与えて代償しようとするだとか、勝ち馬に乗っておきながら、負けた途端に掌返しで鞭を打った癖に被害者面するといった類のことは、天に恥じるべき罪であり、恥であるため決して失せることはない。
やや脱線したが、今度は物語におけるカタルシスを考える。カタルシスは浄化を意味する語であり、代償行為によって得られる満足を指す場合もある。早い話がスッとするってことだ。スッとするといっても、人生、あるいは国家的物語の追承認と、天に恥ずべき輩に与えられる罰とでは、天と地程の差があろう。前者は、時に先に挙げた罪悪感を相手に与える代償行為のような己の恥や罪を覆い隠すための詭弁や欺瞞を含むが、後者は悪辣という人間臭さを伴わない冷酷さを孕むものの、普遍的道徳の顕現と代行であり、詭弁や欺瞞は微塵もない。根本を後者に属するゆえ、勧善懲悪は根強い。
最後にアニメのアンチヒーローとの関係だが、天に対し恥ずべき己に対する羞恥心がないままで、詭弁要素を伴ったカタルシスを描くと腑に落ちない場合が多い。残念ながら、微塵も匂わせるのに成功していない羞恥心を補完出来るのは、余程惹かれたファン以外には出来ないことを挙げておく。
【メモ】ネット配信の群雄割拠を読み解く
2012年6月14日 メモ生の価値とネット放送と視聴環境の変化。
まとめ
・今という生の感覚に旬の感覚が合わさると価値が高まる
・旬の内は融通が利きやすい
・最新話1週間無料は、けちというよりは旬の感覚を付加している
・旬や流行を追うとは、詰まるところ間断無き消費の連鎖に繋げやすい
・自分が楽しめる作品は、自分で積極的に探す必要がある
生放送ではない収録の放映であっても、放送時間に見ることは視聴者にとって巻き戻しの出来ない感覚である。元来、アニメは絵を連続して撮影し繋げて作るものなので生放送が難しい。放送時間に見るという感覚は、録画視聴やビデオグラムでの後追いでは見逃しの対処を考えない場合に絶対に得られない感覚だ。
食べ物でいうところの「旬」だとか、流行の最先端における優位性や優越感もこれと似ている。旬の内は、作り捨ての雑な作りでも許される。一方で、旬を過ぎれば、旬の感覚とは違った何か。例えば、王道のようなものが求められる。
自称古参アニメファンとやらは、深夜アニメの先鋭化を気持ち悪がることがある。理由に、ゴールデンタイムのアニメの時代の良さと懐かさを挙げる。が、今のゴールデンタイムのアニメは見ていないのではないだろうか。
これは、単に自分が見る時間という生の感覚が大事なのであって、たまたまその時に放映されていたものがアニメであったということに過ぎない。今やったところで見ないのなら、根拠としてもビジネスモデルとしても破綻している。加えて、深夜に放映しているからといって、深夜に見ている者が大多数とは限らない。
では、オンデマンドで好きな時間に見るのと変わらないかというと、今見たという生の感覚はあっても、現在進行形で制作放映中の作品以外では旬の感覚に欠ける。この点ネットにおいては、最新話のみ無料といった形が多い。これはけちなのではなく、最新話を旬を逃さず消費出来るといえる。結果、生と旬を擬似的に操って、知らず知らずにテレビで新規話数を追う感覚の訓練にもなっている。
視聴への支払が生じる場合、それは視聴権に対するものである。ただし、完結までの間においては、中途からの視聴参入と旬に追いつくための費用の意味合いも含んでいる。
後追いするにしても、お金は勿論、人気を得られない作品は後々の配信機会どころか、視聴もされることなく忘れ去られる可能性が高い。身も蓋もない見方をすれば、資本主義的、商業主義的成功とは、今のところは間断の無い消費の連鎖でしかない。他方、文化の価値といえば大げさだが、自分の楽しめる作品足る秘密の花園が育つ様を愛でるには、今まで以上に積極的に探さねばなるまい。その手間は、生活の変化と共に年々増加していく。
まとめ
・今という生の感覚に旬の感覚が合わさると価値が高まる
・旬の内は融通が利きやすい
・最新話1週間無料は、けちというよりは旬の感覚を付加している
・旬や流行を追うとは、詰まるところ間断無き消費の連鎖に繋げやすい
・自分が楽しめる作品は、自分で積極的に探す必要がある
生放送ではない収録の放映であっても、放送時間に見ることは視聴者にとって巻き戻しの出来ない感覚である。元来、アニメは絵を連続して撮影し繋げて作るものなので生放送が難しい。放送時間に見るという感覚は、録画視聴やビデオグラムでの後追いでは見逃しの対処を考えない場合に絶対に得られない感覚だ。
食べ物でいうところの「旬」だとか、流行の最先端における優位性や優越感もこれと似ている。旬の内は、作り捨ての雑な作りでも許される。一方で、旬を過ぎれば、旬の感覚とは違った何か。例えば、王道のようなものが求められる。
自称古参アニメファンとやらは、深夜アニメの先鋭化を気持ち悪がることがある。理由に、ゴールデンタイムのアニメの時代の良さと懐かさを挙げる。が、今のゴールデンタイムのアニメは見ていないのではないだろうか。
これは、単に自分が見る時間という生の感覚が大事なのであって、たまたまその時に放映されていたものがアニメであったということに過ぎない。今やったところで見ないのなら、根拠としてもビジネスモデルとしても破綻している。加えて、深夜に放映しているからといって、深夜に見ている者が大多数とは限らない。
では、オンデマンドで好きな時間に見るのと変わらないかというと、今見たという生の感覚はあっても、現在進行形で制作放映中の作品以外では旬の感覚に欠ける。この点ネットにおいては、最新話のみ無料といった形が多い。これはけちなのではなく、最新話を旬を逃さず消費出来るといえる。結果、生と旬を擬似的に操って、知らず知らずにテレビで新規話数を追う感覚の訓練にもなっている。
視聴への支払が生じる場合、それは視聴権に対するものである。ただし、完結までの間においては、中途からの視聴参入と旬に追いつくための費用の意味合いも含んでいる。
後追いするにしても、お金は勿論、人気を得られない作品は後々の配信機会どころか、視聴もされることなく忘れ去られる可能性が高い。身も蓋もない見方をすれば、資本主義的、商業主義的成功とは、今のところは間断の無い消費の連鎖でしかない。他方、文化の価値といえば大げさだが、自分の楽しめる作品足る秘密の花園が育つ様を愛でるには、今まで以上に積極的に探さねばなるまい。その手間は、生活の変化と共に年々増加していく。
【メモ】映画とテレビ
2012年6月8日 メモ映画とテレビの話。
考えたつもりで、実は映画上映の間おしっこを我慢できない野郎の戯言。
まとめ
・テレビは映画より快楽志向で場当たり的になりがちで刹那的と評される
・映画は受け手の時間に対し連続であるがゆえに刹那的とも見られる
・テレビは受け手の時間に対し不連続だが、連続的に補完されるゆえに刹那的ではないともいえる
・刹那的でない受け止め方をすれば、テレビは刹那的でない何かを持ち得る
映画畑の人間や映画に特別な思いを持った世代の人が、テレビは刹那的といった評し方をする。それは本当だろうか。
テレビでの連続放映型の形態は、雑誌の連載などと同じく、物語の部分にあたる毎話毎話で起承転結、あるいはそこまで明確に分けずとも最低限の導入と引きを求められる。その結果、快楽志向で場当たり的な印象に繋がる。一方、映画であれば、本編全体から物語の一部分としてテレビ相当の時間に切り分けても、導入と引きが必ずはない。これは、視聴者が放映の中途で増加するかどうかの違いによるといっても良いだろう。よって、それをして刹那的と評するのは正しい。
しかし、受け手からすれば作品の総時間が同じであっても、作品の完結を見るまでに経過する時間が異なる。メタ的な発想ではあるが、2時間あれば終わる物語を、2時間で見るのと、1ヶ月掛けて見るのを同じように受け止めることはない。映画の2時間で受け手に感情以外で起こる変化といえば精々、「のどが渇く、腹が減る、尿意」といった程度である。一方、テレビの2時間相当である4話分の1ヶ月で受け手に起こる変化といえば、それはもう人生色々であり、作品に対しての解釈についても次の週までに発見や想像が広がる。更に近年であれば、録画しておいて後で見るといったこともある。よって、映画の方がテレビよりは短い間隔で導入と引きを用意する必要はないが、視聴期間で考えると刹那的であるとも見られる。刹那の連続は刹那ではなかろう。
映画は受け手の時間に対し連続であり、テレビは受け手の時間に対し不連続ながらも連続的に繋げて補完される。ゆえにテレビも刹那的でない何かを持ち得る。
考えたつもりで、実は映画上映の間おしっこを我慢できない野郎の戯言。
まとめ
・テレビは映画より快楽志向で場当たり的になりがちで刹那的と評される
・映画は受け手の時間に対し連続であるがゆえに刹那的とも見られる
・テレビは受け手の時間に対し不連続だが、連続的に補完されるゆえに刹那的ではないともいえる
・刹那的でない受け止め方をすれば、テレビは刹那的でない何かを持ち得る
映画畑の人間や映画に特別な思いを持った世代の人が、テレビは刹那的といった評し方をする。それは本当だろうか。
テレビでの連続放映型の形態は、雑誌の連載などと同じく、物語の部分にあたる毎話毎話で起承転結、あるいはそこまで明確に分けずとも最低限の導入と引きを求められる。その結果、快楽志向で場当たり的な印象に繋がる。一方、映画であれば、本編全体から物語の一部分としてテレビ相当の時間に切り分けても、導入と引きが必ずはない。これは、視聴者が放映の中途で増加するかどうかの違いによるといっても良いだろう。よって、それをして刹那的と評するのは正しい。
しかし、受け手からすれば作品の総時間が同じであっても、作品の完結を見るまでに経過する時間が異なる。メタ的な発想ではあるが、2時間あれば終わる物語を、2時間で見るのと、1ヶ月掛けて見るのを同じように受け止めることはない。映画の2時間で受け手に感情以外で起こる変化といえば精々、「のどが渇く、腹が減る、尿意」といった程度である。一方、テレビの2時間相当である4話分の1ヶ月で受け手に起こる変化といえば、それはもう人生色々であり、作品に対しての解釈についても次の週までに発見や想像が広がる。更に近年であれば、録画しておいて後で見るといったこともある。よって、映画の方がテレビよりは短い間隔で導入と引きを用意する必要はないが、視聴期間で考えると刹那的であるとも見られる。刹那の連続は刹那ではなかろう。
映画は受け手の時間に対し連続であり、テレビは受け手の時間に対し不連続ながらも連続的に繋げて補完される。ゆえにテレビも刹那的でない何かを持ち得る。
あな、おたくのめんどうくささよ。
L知っているか?野郎が主人公のアニメにおける二次元の嫁と称する概念は、エディプス(エレクトラ)的で、シンデレラ的願望と寝取られを孕んだお父さんスイッチなのだよ明智君。
まとめ
・シンデレラが阿婆擦れだと辛い
・必ず、最後は寝取られる
・その対象を嫁と称し、仕様も無いよく分からん輩がちらつくとあたふた
・でも最後は娘の幸せを祝福する
・だから、彼氏と称する輩はまともであって欲しい
夢見がちであり処女性が重んじられるのは、娘にシンデレラ症候群であって欲しいかの様。しかして、最後は主人公と結ばれる(寝取られる)ことを祝福するのである。それでありながら嫁と称し、彼氏がちらつくと荒れるのはまるで、娘にエディプス(エレクトラ)コンプレックスであって欲しい父親の様。萌えアニメであっても野郎が主人公なら、いつか嫁的かつ娘的ヒロインがそいつと結ばれるのだ。
つまり、どこの馬の骨とも知らぬ糞野郎、例えば『いちご100%』の(ヒロインの見せ場を作るために目移りする宿命を背負った)主人公の真中「通称:うんこ」、であっても大団円の内はヒロインの幸せそうな姿を見送る気持ちになるのだ。一人に決めた後は、きっと大丈夫だと思い込む。この構図は、とんだお父さん集団だよ。
よって、男の性格は力の有無によらず、全うな善良を絵に描いた判押しになりがちだ。だって、娘の彼氏だぜ、浮気野郎はまだ娘一筋になったと思い込むにしても、倫理観欠如とか正直困るって。
詳しい実証は、心理学専攻の諸氏に任せた。
L知っているか?野郎が主人公のアニメにおける二次元の嫁と称する概念は、エディプス(エレクトラ)的で、シンデレラ的願望と寝取られを孕んだお父さんスイッチなのだよ明智君。
まとめ
・シンデレラが阿婆擦れだと辛い
・必ず、最後は寝取られる
・その対象を嫁と称し、仕様も無いよく分からん輩がちらつくとあたふた
・でも最後は娘の幸せを祝福する
・だから、彼氏と称する輩はまともであって欲しい
夢見がちであり処女性が重んじられるのは、娘にシンデレラ症候群であって欲しいかの様。しかして、最後は主人公と結ばれる(寝取られる)ことを祝福するのである。それでありながら嫁と称し、彼氏がちらつくと荒れるのはまるで、娘にエディプス(エレクトラ)コンプレックスであって欲しい父親の様。萌えアニメであっても野郎が主人公なら、いつか嫁的かつ娘的ヒロインがそいつと結ばれるのだ。
つまり、どこの馬の骨とも知らぬ糞野郎、例えば『いちご100%』の(ヒロインの見せ場を作るために目移りする宿命を背負った)主人公の真中「通称:うんこ」、であっても大団円の内はヒロインの幸せそうな姿を見送る気持ちになるのだ。一人に決めた後は、きっと大丈夫だと思い込む。この構図は、とんだお父さん集団だよ。
よって、男の性格は力の有無によらず、全うな善良を絵に描いた判押しになりがちだ。だって、娘の彼氏だぜ、浮気野郎はまだ娘一筋になったと思い込むにしても、倫理観欠如とか正直困るって。
詳しい実証は、心理学専攻の諸氏に任せた。
メモ-音と動きの同調-
2011年6月23日 メモ魂を揺さぶる鼓動は胸の高鳴りを伴う。
鼓動(辞書より)
[1]心臓の律動的な動き。また、その響き。動悸(どうき)。
[2]内面にひそむものが活力を得て動き出すこと。ふるえ動かすこと。
気持ち良かったOPのまとめ
・曲の始まりの音の出が早いもの
・曲の始まりが強い音のもの
・曲の始まりからテンポが速いもの
・タイトル表示やサビ前、曲の情報表示前後の緩急とスポッティング
アニメのOPやEDにおける入り方について、印象に残っているとか、初めて見て一気に引き込まれたものについて共通点を挙げてみる。
ドラム、ギター、ベース、ヴォーカル、画面が切り替わって2、3フレームで音が出るものはとても印象に残る。また、強い音で始まるものや、始まりからテンポの速いものも印象に残る。端的にいえば、吃驚するだとか、心臓と音の鼓動が同調するとでもいうべきだろうか。
それ以外にも、OPではタイトル表示前後やサビの前後、曲の情報表示の前後に一旦音や動きが緩やかになってから、次の歌い出しで音やそれに合わせた動きが速くなる。おそらくは、転調だろう。それらの時に、音の緩急に加え、スポッティングで動きの同調があるものは、とても気持ちが良い。それは曲の出来とかキャラのデザインのとか作画とかどうでもよくなる気持ち良さだ。
まさにOPは作品の顔といってもよいだろう。最近はアヴァンタイトルありの作品も増えたが、OPは勿論のこと、アヴァンからOPへの入り方の緩急も含めて作品の顔といえるだろう。
鼓動(辞書より)
[1]心臓の律動的な動き。また、その響き。動悸(どうき)。
[2]内面にひそむものが活力を得て動き出すこと。ふるえ動かすこと。
気持ち良かったOPのまとめ
・曲の始まりの音の出が早いもの
・曲の始まりが強い音のもの
・曲の始まりからテンポが速いもの
・タイトル表示やサビ前、曲の情報表示前後の緩急とスポッティング
アニメのOPやEDにおける入り方について、印象に残っているとか、初めて見て一気に引き込まれたものについて共通点を挙げてみる。
ドラム、ギター、ベース、ヴォーカル、画面が切り替わって2、3フレームで音が出るものはとても印象に残る。また、強い音で始まるものや、始まりからテンポの速いものも印象に残る。端的にいえば、吃驚するだとか、心臓と音の鼓動が同調するとでもいうべきだろうか。
それ以外にも、OPではタイトル表示前後やサビの前後、曲の情報表示の前後に一旦音や動きが緩やかになってから、次の歌い出しで音やそれに合わせた動きが速くなる。おそらくは、転調だろう。それらの時に、音の緩急に加え、スポッティングで動きの同調があるものは、とても気持ちが良い。それは曲の出来とかキャラのデザインのとか作画とかどうでもよくなる気持ち良さだ。
まさにOPは作品の顔といってもよいだろう。最近はアヴァンタイトルありの作品も増えたが、OPは勿論のこと、アヴァンからOPへの入り方の緩急も含めて作品の顔といえるだろう。
メモ-クレヨンしんちゃん-
2011年1月2日 メモクレヨンしんちゃんが色褪せていないと思う理由。
例えば、ひろしが会議用の書類を忘れた場合。
ちょっと昔だと、完全に私用電話とは言い難いが、申し訳なさそうに社内の固定電話から電話する。今は、携帯電話でさほどの後ろめたさもなく電話する。
例えば、アクション仮面を見る場合。
リアルタイムに走って帰ることは今も昔も変わらないが、今はDVDが登場している。
それにもかかわらず、登場人物が増えることはあっても、年を取って成長はしない。逆にいえば、年を取って成長はしないが、文明の進歩は表現される。これは、いつでも放送時の子供や大人を最大公約数的に表現しているといえるだろう。時が経っても、今現在の文明の進歩に合わせた子供や大人がそこに登場するのだから、色褪せて見えない。
パソコンは、インターネットが出来て、子供がいる以上は困るので登場しないかもしれないが、3Dテレビが普及すれば登場する日もそう遠くはないだろう。
例えば、ひろしが会議用の書類を忘れた場合。
ちょっと昔だと、完全に私用電話とは言い難いが、申し訳なさそうに社内の固定電話から電話する。今は、携帯電話でさほどの後ろめたさもなく電話する。
例えば、アクション仮面を見る場合。
リアルタイムに走って帰ることは今も昔も変わらないが、今はDVDが登場している。
それにもかかわらず、登場人物が増えることはあっても、年を取って成長はしない。逆にいえば、年を取って成長はしないが、文明の進歩は表現される。これは、いつでも放送時の子供や大人を最大公約数的に表現しているといえるだろう。時が経っても、今現在の文明の進歩に合わせた子供や大人がそこに登場するのだから、色褪せて見えない。
パソコンは、インターネットが出来て、子供がいる以上は困るので登場しないかもしれないが、3Dテレビが普及すれば登場する日もそう遠くはないだろう。
メモ-反主流派より愛を込めて-
2011年1月1日 メモ日本におけるアニメやドラマの主流と反主流について。
まとめ
・ドラマの人気者や綺麗所集合とアニメの萌え偏重って意外と似てますぜ
・主流派とは売り上げに貢献しやすそうな方のこと
・キャラクターの造形や性格といった属性重視が主流派
・物語や演出といったキャラクター周辺要素の整合性重視が反主流派
・両者とも満たす作品は滅多にない
パッと見の日本のドラマの印象は、演者の名前頼みで、恋愛模様を混ぜつつ、演者のアップでBGMなり主題歌を流す。そんな感じで、フレームワークなりの演出が補強するやり方ではない。それはアニメでも同じ感じ。ドラマの場合、演者がキャラの見た目も兼ねており、演者のイメージに内容が制約されることもある。アニメの場合、演者とキャラの見た目は分業で、演者のイメージによる制約を受けにくいし、カメラワークも物理法則の制約を受けにくい。両者に共通しているのは、キャラクターに相当するものの持つ属性への親しみが物語の面白さに変換されている点にある。つまり、作品の評価が、キャラクターの属性への親しみのみ、もしくは中心に考えるのが主流派。ただ、物語を形作る話や演出の出来や構成もあればなお良し。
一方の反主流派は、キャラクターの親しみだけでは満足せず、物語を形作る話や演出の出来や構成を作品の評価と考えるといったところ。当然、両方が充実している必要の分、要求水準が高くて、あまりキャラクターに親しみが無くても高評価となる。だから、私が高評価を与える作品の多くが売れない作品に偏っている訳だ。(って、まずお前が買えよ)
よって、売り上げに貢献しない反主流派の意見に惑う必要無し。それが商業なり。
2011年1月1日 反主流派よりアニメに愛を込めて
まとめ
・ドラマの人気者や綺麗所集合とアニメの萌え偏重って意外と似てますぜ
・主流派とは売り上げに貢献しやすそうな方のこと
・キャラクターの造形や性格といった属性重視が主流派
・物語や演出といったキャラクター周辺要素の整合性重視が反主流派
・両者とも満たす作品は滅多にない
パッと見の日本のドラマの印象は、演者の名前頼みで、恋愛模様を混ぜつつ、演者のアップでBGMなり主題歌を流す。そんな感じで、フレームワークなりの演出が補強するやり方ではない。それはアニメでも同じ感じ。ドラマの場合、演者がキャラの見た目も兼ねており、演者のイメージに内容が制約されることもある。アニメの場合、演者とキャラの見た目は分業で、演者のイメージによる制約を受けにくいし、カメラワークも物理法則の制約を受けにくい。両者に共通しているのは、キャラクターに相当するものの持つ属性への親しみが物語の面白さに変換されている点にある。つまり、作品の評価が、キャラクターの属性への親しみのみ、もしくは中心に考えるのが主流派。ただ、物語を形作る話や演出の出来や構成もあればなお良し。
一方の反主流派は、キャラクターの親しみだけでは満足せず、物語を形作る話や演出の出来や構成を作品の評価と考えるといったところ。当然、両方が充実している必要の分、要求水準が高くて、あまりキャラクターに親しみが無くても高評価となる。だから、私が高評価を与える作品の多くが売れない作品に偏っている訳だ。(って、まずお前が買えよ)
よって、売り上げに貢献しない反主流派の意見に惑う必要無し。それが商業なり。
2011年1月1日 反主流派よりアニメに愛を込めて
印象の良かったアニメOPの傾向から自分の好みと定番を考える。
絵の掴みは、曲でも掴みに当たるのではないかと。
構成関係
・前奏から歌い出しまでの間で作品タイトルが出るまでの部分に掴みを持ってくる
最初からテンポが速い曲の場合に多い。また、タイトルは最後に出る場合もある。大体の良いOPに当てはまり、掴み以外も充実していて終わりまで中弛みしないことが多い。
・歌い出しのすぐ後でテンポが速くなるのに合わせて掴みを持ってくる
少しの間、肩透かしと思わせ、溜めを作ってからの緩急も織り込む。後からじわじわ来る印象の場合に多い。
・サビに掴みを持ってくる
遅めのテンポで始まってサビから速くなる曲や、速めのテンポで始まってもサビから更に速くなる場合に多い。また、既にサビまでで一度以上の掴みのある場合もある。
・間奏中や次の歌い出しに音響や曲の情報を持ってくる
間奏がある場合は大体当てはまると思われる。緊張と弛緩の切り替えで、販促に重要な文字情報が集中して見られる。
タイミング関係
・休止や小休止に全部、または動きにあった間隔で適宜カットを切り替える
・重奏の中で目立つ音に動きのタイミングを合わせる
アップテンポの曲の大半が当てはまると思われ、速さと力強さの印象を受ける。あまり激しいカットの切り替えや動きは、文字が追えなかったり、動き過ぎて気持ちが悪く見えるため、加減が重要だろう。
一方で、テンポの速くない曲や遅い曲の場合は、カットの切り替えで速さを見せるよりは場面の切り替え重視し、動きのタイミングはあまり合わせない。個人的に、テンポが遅めの曲は滑っている場合が多いと思うから、そういう曲で良いと思えるOPは、とても上手く見える。
絵の掴みは、曲でも掴みに当たるのではないかと。
構成関係
・前奏から歌い出しまでの間で作品タイトルが出るまでの部分に掴みを持ってくる
最初からテンポが速い曲の場合に多い。また、タイトルは最後に出る場合もある。大体の良いOPに当てはまり、掴み以外も充実していて終わりまで中弛みしないことが多い。
・歌い出しのすぐ後でテンポが速くなるのに合わせて掴みを持ってくる
少しの間、肩透かしと思わせ、溜めを作ってからの緩急も織り込む。後からじわじわ来る印象の場合に多い。
・サビに掴みを持ってくる
遅めのテンポで始まってサビから速くなる曲や、速めのテンポで始まってもサビから更に速くなる場合に多い。また、既にサビまでで一度以上の掴みのある場合もある。
・間奏中や次の歌い出しに音響や曲の情報を持ってくる
間奏がある場合は大体当てはまると思われる。緊張と弛緩の切り替えで、販促に重要な文字情報が集中して見られる。
タイミング関係
・休止や小休止に全部、または動きにあった間隔で適宜カットを切り替える
・重奏の中で目立つ音に動きのタイミングを合わせる
アップテンポの曲の大半が当てはまると思われ、速さと力強さの印象を受ける。あまり激しいカットの切り替えや動きは、文字が追えなかったり、動き過ぎて気持ちが悪く見えるため、加減が重要だろう。
一方で、テンポの速くない曲や遅い曲の場合は、カットの切り替えで速さを見せるよりは場面の切り替え重視し、動きのタイミングはあまり合わせない。個人的に、テンポが遅めの曲は滑っている場合が多いと思うから、そういう曲で良いと思えるOPは、とても上手く見える。
メモ-変換の難しさ-
2010年11月27日 メモ媒体が変わると印象が変わる。
事実を言葉や絵で羅列してあったものが、映像になることによって擬似体験となる。
例として、「10人惨殺」と聞けば、10人が無残な死を遂げたのかと思うだけで、切り殺されたとか、爆発で吹っ飛んだと情報が増えても、言葉や絵のみだと想像の範囲に収まるので、恐らくは残酷さに対する印象が薄まっている。一方で、映像で「10人惨殺」を見せられると、目撃者になるわけで、詳細に描くほどに不快感が増す。
そう考えると、ダークヒーローや残酷描写をアニメ化するのは難しい。
事実を言葉や絵で羅列してあったものが、映像になることによって擬似体験となる。
例として、「10人惨殺」と聞けば、10人が無残な死を遂げたのかと思うだけで、切り殺されたとか、爆発で吹っ飛んだと情報が増えても、言葉や絵のみだと想像の範囲に収まるので、恐らくは残酷さに対する印象が薄まっている。一方で、映像で「10人惨殺」を見せられると、目撃者になるわけで、詳細に描くほどに不快感が増す。
そう考えると、ダークヒーローや残酷描写をアニメ化するのは難しい。
メモ-アニメの本質-
2010年8月18日 メモアニメの本質を考えてみる。
まずは、映像全般について。
・時間
映像とは時間を演出する媒体である。
実時間の進行を伴わずに表現することは不可能で、一定の時間が必要である。
映像作品であるアニメの本質も時間表現にあると思われる。
時間の表現には、文化や歴史が関係する。
個々に分解して考える。
・物語
物語は作品内の時間経過に際して、あったことを受け手に感じさせることで表現される。
物語は作品を鑑賞した実時間や作品について考えた実時間で進行する。
・視覚
絵の動きやカットの繋ぎは時間を表現する。それは、フレーム単位で進行する。
・音楽
音楽も時間の経過によって表現される。音楽は拍子単位で進行する。
フレームと拍子は、単位時間の分け方が異なる。
・台詞
台詞も時間の経過によって表現される。
フレームや拍子とは異なり、喋り手の呼吸で進行する。
・絵の質
絵の質とは、線や濃淡や光と影で表現され、作品世界の像にあたる。
個々の書き手の癖はあれど、許容出来る範囲での統一感が必要である。
硬軟の表現のために崩すことはあっても、基本的に一度決めたデザインが枠組を作る。
統一感は、ある絵の後に別の絵を見て計られるため、実時間と無関係ではない。
映像以外の点
「素朴な優しさ」
http://69541.diarynote.jp/201005080032414074/
「孝の心」
http://69541.diarynote.jp/201005030646578062/
上記内容に加え、公正さ、平和的共生といった内容を日本的価値観で表現している。
無宗教とも原理主義とも違った倫理観に沿っていることも特徴的だ。
商業的制約はあるものの、演出上必要な表現に対する自由度はかなり高い。
まとめ
・実時間、フレーム、拍子、呼吸と時間に関連した表現の組み合わせが映像作品の本質
・上記に加え、アニメは連続した絵で動きを作る
・緩急や間、繋ぎ方が日本的な感覚表現だからこそ、アニメはアニメーションと異なる
・映像以外の点でも日本的価値観と理想像に立脚している
・商業的制約があるからこその統制が取れた自由な表現
書きかけですが、こちらもどうぞ
『僕の考えた最強のアニメ-目次-』
http://69541.diarynote.jp/201101051904283650/
まずは、映像全般について。
・時間
映像とは時間を演出する媒体である。
実時間の進行を伴わずに表現することは不可能で、一定の時間が必要である。
映像作品であるアニメの本質も時間表現にあると思われる。
時間の表現には、文化や歴史が関係する。
個々に分解して考える。
・物語
物語は作品内の時間経過に際して、あったことを受け手に感じさせることで表現される。
物語は作品を鑑賞した実時間や作品について考えた実時間で進行する。
・視覚
絵の動きやカットの繋ぎは時間を表現する。それは、フレーム単位で進行する。
・音楽
音楽も時間の経過によって表現される。音楽は拍子単位で進行する。
フレームと拍子は、単位時間の分け方が異なる。
・台詞
台詞も時間の経過によって表現される。
フレームや拍子とは異なり、喋り手の呼吸で進行する。
・絵の質
絵の質とは、線や濃淡や光と影で表現され、作品世界の像にあたる。
個々の書き手の癖はあれど、許容出来る範囲での統一感が必要である。
硬軟の表現のために崩すことはあっても、基本的に一度決めたデザインが枠組を作る。
統一感は、ある絵の後に別の絵を見て計られるため、実時間と無関係ではない。
映像以外の点
「素朴な優しさ」
http://69541.diarynote.jp/201005080032414074/
「孝の心」
http://69541.diarynote.jp/201005030646578062/
上記内容に加え、公正さ、平和的共生といった内容を日本的価値観で表現している。
無宗教とも原理主義とも違った倫理観に沿っていることも特徴的だ。
商業的制約はあるものの、演出上必要な表現に対する自由度はかなり高い。
まとめ
・実時間、フレーム、拍子、呼吸と時間に関連した表現の組み合わせが映像作品の本質
・上記に加え、アニメは連続した絵で動きを作る
・緩急や間、繋ぎ方が日本的な感覚表現だからこそ、アニメはアニメーションと異なる
・映像以外の点でも日本的価値観と理想像に立脚している
・商業的制約があるからこその統制が取れた自由な表現
書きかけですが、こちらもどうぞ
『僕の考えた最強のアニメ-目次-』
http://69541.diarynote.jp/201101051904283650/