まとめ
・子供向けアニメにも、萌えアニメの要素はある
・「萌え」が惹かれる気持ちなら、子供だって惹かれる
・子供向けアニメは演者にとってあがり的なもの
・子供向けからエロへと輸出された要素が、再び子供向けに帰ってきている


釘宮理恵
真堂圭
三瓶由布子
斎藤千和


さて、こちらの声優陣を見て、何ぞの萌えアニメかと思われる方もいらっしゃるだろうか。実際は、『たまごっち!』の主演陣である。
子供に向けても「萌え」がある。要は、萌えアニメに出るような可愛らしい声を子供向けの可愛らしいキャラクターと合わせて売り込むということだ。大人のオッサンが惹かれるキャラクターを演じる声は、子供にとっても惹かれるものであって不思議はない。邪な心、親しみの心、共に惹かれる気持ちなのだ。オッサンが下半身を刺激されている頃、子供達は上半身を刺激されていたというわけで、アニメってのは見ているこちらが何かを買わないと成り立たない形の経済活動の一端に過ぎないということでもある。
また、演者のキャリアアップとしては、一定のあがりともいえる状況が子供向けアニメであり、取り分け期間の定めのないアニメである。4クール、もしくは終了までの数年間や数十年間に渡って、出演と報酬が約束されている状況はあがりと呼べるものだろう。つまり、「萌え」なる一見新しそうな系統の作品に出ている人達もあがりに来る程の時が経ったともいえる。むしろ、一昔前のちょっとエロありのOVAに出ていた人達ってのは、子供向けから輸入された可愛らしい声だったりするので、今は逆の現象が起こっているともいえる。
「萌え」を定義してみよう。


まとめ
・「萌え」は口に出すのは憚られる感覚を集約した表現
・「萌え」って文字ならまだしも、口に出すのは恥ずかしい
・「萌え」とは、惹かれる気持ち


「萌え」でよく言われるところは、本番行為の無い性的な描写や劣情を喚起することだろうか。いわば、18禁作品に対する全年齢版といったところ。そこに、本来性的な対象とすることを禁忌とされる、例えば年齢が法令違反であったり、人外や擬人化であったりに上気するような感覚が合流した感覚だろうか。実際、既存の卑猥な言葉でいえば、興奮するだとか勃起ってことになる。それをそのまま口にするが如く、文字で書き込むことが憚られるのは羞恥心や自制として理解しやすく、当たり障りのない言葉に行きついたと見ることが出来る。
また「萌え」という言葉は、口語というよりは文字媒体における文語として捉えた方がしっくりくるだろう。マスメディアが面白おかしく取り上げたか作り上げたかして、合意を形成したから多少口語としても使う局面もあるが、本気で個人の詩的で私的な情念を伝える言葉としては、定義や捉え方が曖昧で相応しいとは思えない。魂の叫びとは、もっと直情な言葉ではなかろうか。
私としては、肌色乱舞や光と闇の狭間や土手に食い込むおパンツ様といった直接的な描写の無い作品。例えば、女の子一杯の日常作品には「萌え」を感じないので、この「萌え」という言葉をよく言われている範囲だけではなく拡張して考えたい。そこで、ベテランの演者の円熟の演技に裏打ちされたキャラクター、例えばオッサン、ババア、祖父ちゃん、祖母ちゃん。要は、大人として後進を導こうとするだとか、受け止めてくれる存在にホッとする感覚。また、子供や動物や妖精のような謎の生き物といった可愛らしいキャラクターを見て血圧が上がる感覚。これらも「萌え」に含めて考え、「萌え」とは惹かれる気持ちと定義する。例えば、美男美女がチュッチュしている姿を好ましく思うこともこれに含まれる。
今回は「萌え」を定義してみました。次回は、子供に向けても「萌え」があるということを考えます。
物語の構造は時を刻まない。(まとめ)


媒体を問わず物語の構造や構成要素を語ることは出来る。しかしながら、物語は媒体によって表現される。また、およそ既存の媒体は全て時を刻むか刻んだものである。異なる点は時の刻み方と受け手にとっての時の感じ方。よって、今のところ物理的に時間が伸長することはないが、体感として伸長することはある。勿論、物語において構造や構成要素が気に入るかどうかは大事。だけど、同じくらい時の刻み方も大事。
物語の構造や構成要素がありきたりだとか陳腐であっても、時の刻み方や感じ方で面白くなる場合がある。
文章、漫画、ゲーム、映像、媒体の違いメモ。

補完の定量的余地:多い・少ない
いわゆる行間に当たる部分、実像へ近づく程に反比例に近い傾向。また、時間の区切りに比例する傾向。

作品体験時間(連続性を損なわずに):調整可能・調整不可能
印刷や文字媒体は、読みかけからの再開がしやすい。映像媒体では、体験時間の連続性が損なわれやすい。しかしながら、連続性が損なわれても、それはまた別の印象として好意的に受け取ることも可能。

作品世界に対する働きかけ:可能・不可能
ゲームやゲーム的なものでは、選択肢を選んだ結果何か変化が生じる。もしくは、変化が生じないといった結果に影響を与えられる。その他の媒体では、概ねこちらの思いとは裏腹に作り手の意向による部分が多く、制作規模もあってスピード感に欠けるため結果は変化しない。ハラハラしたとして、それは結果が想像出来る展開に対し期待感と安心感を上手く刺激するよう作られているからといえる。

例えばどうだろう
・文字は視覚情報か聴覚情報か
視覚情報だが、読み上げて捉えると聴覚情報になる。むしろ、記憶・経験・想像と結び付けて考えるので、どちらでもない要素も含んでいる。

・メタ視点で設定等の構造が同じに見えても、選択による変化の可能性と祈りが叶う程度のこととは同じか
どちらも、作り上げた範囲内で展開する点で受動的。ゲームは選択で先の展開が変化する場合、先の展開が変化する。映像は完成品になった段階で先の展開は変化しない。ゲームは能動的な部分があり、他の媒体では選択と選択による変化がある場合を除いて特にない。ゲームは、いくらか変わる先の展開に対し、与えられた中で最良の方向へと克服する。一方、他の媒体は、変わらない先の展開に対し、変わるかのように捉えて願望を投影する。同じではないから、翻案や翻訳の難しさがある。思考を文章に起こすことでさえ、誤差が出る。
okm

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