『サザエさん』といえば、古典的ホームドラマの部類に入る作品だ。
戦後復員の家長が持つ発言力の強さと、戦後的な男女平等に基づいた家計管理の全権委譲型の入り婿が同居する点はやや奇妙である。
さて、携帯電話が登場すると、この作品はどうなるのだろうか。
恐らくだが、変わらざるを得ないと思われる。遅くなるからと公衆電話を掛けることは無くなるだろう。麻雀の為のアリバイ作りもGPSでバレバレ。居酒屋に入る前にクーポンを探すかもしれない。
それでも、心のあり方は変わらないのだが、生活の様式は変わらざるを得ない。そもそも、テレビよりも新聞がメディアの中心である世界観に、携帯電話は合わない様に思える。と、ここまでは作品世界の現実的妥当性を中心に考えたが、そう難しく考えることも無い。
今やケイタイと呼ばれ、若者に限らず文化の一部となっており、携帯電話の玩具は定番となっている。この作品は今でこそ複数社の提供だが、元々は東芝一社提供の古い系統の作品である。お菓子や玩具の会社が提供していないのだから、「サザエフォン」のような提供会社の商品はどこも要請していない代物であり、携帯電話を出す必要がない。
今時平屋で、戦後の男女平等に基づいた家計管理の全権委譲が進歩の限界なのだから、それこそ『大改造!!劇的ビフォーアフター』でリフォームでしたり、デジタル制作に移行でもしない限りは変わりようが無い。ということは、変わらないことを楽しむように出来た世界観や作品作りが、らしくない話は増やしつつも、本質的に変わることを拒否している最後の箱庭と言えるだろう。

*追記
現在、携帯電話は登場済みで、デジタル制作に移行もしており、拘りだったということも無いようで迷走ともいえる状態になっている。
日常アニメや空気アニメと呼ばれる作品を考える。
各話数毎をミクロ、全体や編をマクロと定義する。
各話数毎の話に必要な要素は日々の話題であり、全体や編に必要な要素は日々の話題の集合である一定期間や一定期間の話題、テーマ等である。
伏線は各話数毎の話を構成するミクロレベルのもの、全体や編の話を構成するマクロレベルのものがある。また、伏線とは情報量の統制である。
映像作品に共通しているのは、1分間に2分間の放映をするような、実際の時間の流れには逆らえないこと。つまり、映像や表現の技術が向上しようとも、単位時間の情報量に限界がある。
長編の一部を短編に仕立てることは可能である。時間の制約がある以上、アニメに限らずドラマを見せる場合には、一般的な手法といってよい。
一方で、短編の羅列は長編ではないが、時間としては一定期間を長編と同等に仕立てることも可能である。各話毎の話は独立しているが、登場人物等は同じであり、各話毎の独立は緩い。
昨今の日常アニメや空気アニメと呼ばれる作品は、後者に属する作品が多い。
長寿作品の作品内での時間は現実の季節に合わせる形でしばしば巻き戻っている。しかしながら、日常アニメや空気アニメでは時間は巻き戻らない。あくまで、過ぎ去った日々として蓄積される。この蓄積こそが、現実の放映した時間と同等の時間であり、視聴者の過ぎ去った時間と同調するものである。つまり、蓄積される時間やそれを通して設定を統一して見せることが、日常や空気であるといえよう。
恐らく、物語がないの物語とは、マクロレベルの話だろう。そして、ミクロでは面白いのだが、マクロとして面白くない場合、マクロとはミクロの集合であり、ミクロの手法としては正しくても、マクロの手法としては正しくないのだろう。これは、合成の誤謬的なことだ。
人が生き物である以上は避け難い欲求。それがエロだ。行為そのものだけでなく、行える者の関係性が倒錯していることもエロに含まれるだろう。また、服を着るのが当然となった現代では裸や、それに近い露出といったフェチ、定番となった触手、ありとあらゆる性的興奮に繋がるものは強い。
アホバカな話なのですが、なぜか集めたくなるんですよ、エロは。だから、不況でも強い。男も女も美形を揃えて乱舞されば、もうワッショ、ワッショイです。でも、狙い過ぎに見えて興醒めするので、一般向けでは最後の一欠けらの慎みを忘れない方が良いかと。
暴力は有形無形を問わず効果的な手段だ。特に有形の暴力は映像にすると、激しい動きを伴わせることが可能だ。激しい動きは刺激が強い。刺激が強いと興奮する。その興奮には快感を伴う。
風が吹けば桶屋が儲かるような構造だが、無意味な暴力はほとんどない。悪党であれ、正義であれ、プロであれ、一般人であれ、暴力には理由と目的が伴う。理由無き暴力は、メタ視点で考えると、理由無き暴力を見せることが目的になる。ドカバキ、バンバン、ドッカンに対する根源的な娯楽性は軽視出来ない。世界には公開処刑に人々が群がった国と歴史がある。
ただし、理由と目的の演出を失敗すると、酷いだけのものになる。
現実の時間と同調する物語の典型例を挙げると、成長物語が挙げられる。
成長物語というと、子供や未熟な者が「しなければならないこと」のイメージで語られがちだが、そこそこの腕前の者が一流へと磨かれて行くこともある。
共通しているのは、練習やコツを習うといった経験を蓄積することによって、起こる現象が物語の中に描かれるか、事実を物語的に並べることだ。そして、それにはある程度作品内での時間が掛かる。映像の場合はある程度の尺が掛かる。つまり、現実に視聴してきた時間と作品内での成長に掛かる時間とが同調することになる。
他の例として、関係の進展が挙げられるだろう。よく頑張った。成るべくして成った。見ることで必ず掛かる時間との同調は根強い形だ。それだけに、掛けた時間に見合った結果を提示出来ないと時間泥棒にでも遭った気分になる。
ホームドラマというと家族をテーマとしたドラマを指すが、集合で考えると居場所の話があって、個人の居場所の一つの代表的かつ最大のものが家族だと考えられる。よって、居場所の話をホームドラマと仮定する。加えて、居場所とは、体や心が居られ安らげる場所のことを指すものとする。
そうして眺めてみると、どんな作品にも大なり小なり絡む話であり、玩具を売るのじゃなワクワクの子供向けであれ、中高生以上を対象にハラハラドキドキさせるぜであれ、起伏のあるドラマがない萌えろ系であれ、目新しさが出辛いファミリー向けであっても居場所での日常や居場所の存続に関わる大なり小なりの事件が出てくる。
たとえ、それまでの内容がヘロヘロで圧倒的敗北を予見していようと、居場所の話が出てくると一気に引き締まった軟着陸を見せる。ホームドラマはいつでもド級の安牌。逆に考えると、そこを失敗したらやばい。
パターンをやるならもっともらしく、映像としてはカメラで写すが如く。そんな理想的な状態に出来て当然と思っている節はないだろうか。
作り手の最善ではなく、受け手として最高と思う出来を求めるのは、当然といえば当然なのだが、商業アニメで作品を回すとなると、全てが最高になることはほとんどない。しかしながら、時折職人的矜持で最高に近い作品が出来上がるので、人は求めてしまう。
また、実写に詳しくなくとも、実像を移す目をカメラのように考えて、同じように作り込んだ映像を求めている節がありはしないか。カメラで撮ったのと同レベルの映像をアニメで作るのは、難しく滅多に無い。それならば、雑過ぎるのは考え物だが、少し雑に見える部分があろうと、少しでも良い部分を探して楽しむ方が楽しみが増える。
要は、スケジュールの余裕と人員やスキルを整えるのが難しい商業作品に至高の芸術性が出来て当然と思うのは当然であっても、期待外れに終わることが多いという話。

メモ-最低と最高-

2009年12月27日 メモ
最低は最高の演出によって許される。

最低といっても、話の内容が論理的に破綻しているとか、論理的に表現された話の内容が面白くないとか、動かすことに力を入れ過ぎて話をそっちのけにして見えるとか、劇判や歌に全てを賭けていて他は駄目駄目とか、CGに力を入れているけど2Dに対して浮き過ぎ、露骨な宣伝にエロ、分かりやすくするため細かく台詞で説明等々色々ある。およそ、統制や調和、それから芸術には程遠い。納期、スポンサー、スタジオワークの負の面がにじみ出たそれらが、商業で作品を作るということの一面なのだろう。
ただ、話の内容が論理的に破綻していても、演出はあって、次の演出のための演出で様式美を作り上げる。表現される話の内容は面白くなくても、論理的な方法、つまりは演出が優れている。動かすことに力を入れ過ぎて話をそっちのけにして見えても、動かしている場面がとにかく格好良く見えるように演出されている。劇判や歌に全てを賭けていて他は駄目駄目でも劇判や歌が気持ち良く演出されていて、記憶に残る。CGに力を入れているけど2Dに対して浮き過ぎていても、CGと2Dそれぞれが持てる技術を使って別個に良い映像を演出している。露骨な宣伝にエロの演出、その露骨さが逆にパターンものとして受け入れられている。分かりやすくするため細かく台詞で説明しているけど、扱っている内容は普遍的なものやその時の今を捉え演出されている。そんな最高の演出によって意味を持たせることで、最低の存在は許される。
統制や調和、芸術的な作品には無い独特の荒々しさとでも言うべきか。そういう荒々しさは人によって好みが分かれるから褒め切れない。だから、作品の評価が難しく、嫌いな人だけが駄作と評する。そして、作品の消費ペースが早いから忘れ去られていく。
忘れないためには、時々思い出すことだ。
1クールもしくは2クールを対象とする。
現在、製作委員会と出資者会社との関係によって、子会社、関連会社として連結で処理する場合もあるが、出資金処理出来る関係とする。
映像ソフトの売上は時間と巻数経過で逓減(次第に減る)。
よって、1、2巻の販売で総売上の予測が立つ。
放送開始から3ヶ月程度で映像ソフトの販売を開始する。
販売開始した巻は翌月程度までを総売上の近似値とみなし、以降5、6巻もしくは12、13巻までを回収期間とする。
上半期開始の場合、ストックを作るため前年より出資する。
1クールの場合、出資から回収期間が年度をまたぐ。
2クールの場合、出資から回収期間が年度を大体2回またぐ。
出資率等の取り決めによる分配比率と総売上の予測から、出資金の価値を見積もることが出来る。
売上が低く、分配が出資より少ない作品の出資者は出資金の評価替えをして損失計上。
とても単純に考えたが、1クールでも資金の回収に1年近く掛かるのだから、船頭多くして船山に登ることはさもありなんといったところか。
子供向けアニメは、可愛らしいキャラクターと関連商品の宣伝やワンパターンともいえる話を基本としている、その中でパターンを守りつつもパターンを超えた熱意の存在が楽しい所。もっとも、子供は別の部分を楽しんでいたりしてお構いなしだったりしますが。後年になって、もう一度目にした時やふと思い出した時に何であんなに熱中したのかと思う作品は、そういう熱意に溢れていたりします。
熱意とは、主たる対象以外にも楽しめるように作ろうとする作り手の矜持、いわば職人魂であり、それが込められている作品が、子供向けアニメとして放送されている。それが、国家戦略による文化振興によってではなく、市場原理によって作られて発展してきた。子供向けに限らず、ほとんどの作品が経済と芸術のせめぎ合いによって成り立っている。
こうして積み重ねてきた歴史を持つ文化は、国内において国内の視点から評価されることはなく、海外の視点で評価された後に、その視点を使って後追いで評価し始める。歴史は繰り返すとはよく言ったものだが、子供向けアニメはクールジャパンとやらの中に入っているのだろうか。

メモ-地盤-

2009年11月30日 メモ
はじめて見たアニメは何だろうか。
今もアニメを見ている人は、子供の頃にアニメであれ漫画であれ特撮であれ何らかの子供向けの作品を見ていたのではないだろうか。子供の頃に心躍った作品達、その中でも内容を思い出せる作品や面白かったと強く意識したことを覚えている作品はないだろうか。
アニメを中心に進めるが、子供向けアニメといっても対象年齢は未就学児童から小学校低学年やそれより少し上と多様であり、子供向け以外にもティーン以上、アダルトと様々な対象があり、エスカレーター式に作品を楽しめる構造となっている。
かつては居なかった子供向けアニメを嬉々として見る大人やその欲求も適度に満たせる隙の無さは奇異に見えるかもしれない。しかしながら、依然として子供向けの作品は大人のファンへと連なる地盤ではないだろうか。
日本のアニメの特色として、政治的でなく、宗教色が薄く、暴力的で、恋愛があり、家族的であること等を満たせることが挙げられる。これら全てを満たした作品が成立出来る文化的土壌が存在するということは無形ながら至宝である。
政治的でないことは自由度が高く、宗教色が薄いこともまた自由度を高めている。暴力的であることは派手な動きを見せられる。恋愛があることは物語の幅を広げる。家族的であることは親しみを増し予定調和的に安心出来る。そこにリミテッドアニメーションで編み出された止めの演出が加わって緩急が生まれる。そんな作品がテレビを設置すればNHK料金を払うだけで確実に週1で新作が無料で見られる。これが夢の話ではなく現状であること、それは奇跡だ。

メモ-心技体-

2009年7月14日 メモ
心とはキャラクターの心。つまり、感情や価値観とそれに基づいた行動を意味する。
技とは映像の技術。つまり、アニメーティングや止め絵の完成度、音響、演技、設定、物語の運び等の技術面を意味する。
体とは心と技の体裁。つまり、バランスやまとまりの良さを意味する。
心が整っていれば、技が少々見劣りしても出来上がりは悪くない。心の出来によらず、技が突出している作品は浮いた印象を受ける。そこから考えると、技が心を活かすための範囲で収まっていることが重要であり、それが体の意味する所だと考える。
感想は水物なので、感じた根拠の経緯を順に書くと、後で読み直した時にその時点での生の感覚を思い出し易い。
1,2 2005年4月 - 9月 ハチミツとクローバー 24 J.C.STAFF
3 2005年10月 - 12月 Paradise Kiss 12 マッドハウス
4 2006年1月 - 3月 怪 〜ayakashi〜 11 東映アニメーション
5 2006年4月 - 6月 獣王星 11 ボンズ
6 2006年6月 - 9月 ハチミツとクローバーII 12 J.C.STAFF
7 2006年10月 - 12月 働きマン 11 ぎゃろっぷ
8,9 2007年1月 - 6月 のだめカンタービレ 23 J.C.STAFF
10 2007年7月 - 9月 モノノ怪 12 東映アニメーション
11 2007年10月 - 12月 もやしもん 11 白組/テレコム・アニメーションフィルム
12 2008年1月 - 3月 墓場鬼太郎 11 東映アニメーション
13 2008年4月 - 6月 図書館戦争 12 Production I.G
14 2008年7月 - 9月 西洋骨董洋菓子店 〜アンティーク〜 12 日本アニメーション/白組
15 2008年10月 - 12月 のだめカンタービレ 巴里編 11 J.C.STAFF
16 2009年1月 - 3月 源氏物語千年紀 Genji[9] 11 トムス・エンタテインメント/手塚プロダクション
17 2009年4月 - 6月 東のエデン 11(予定) Production I.G

これまでに放送された作品について「Wikipedia」より転載
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%8A

『ハチミツとクローバー』と『Paradise Kiss』を放送するために出来た枠がノイタミナの始まりと考えて良いだろう。この2つで様子を見て人気が出たので『ハチミツとクローバー』のクールを分割出来るように間の作品があったと思われる。原作ありの『Paradise Kiss』の後にオリジナルの挑戦的な『怪〜ayakashi〜』があり、また原作ありの『獣王星』という流れは、安牌の原作ありで稼いで挑戦のオリジナルを一定間隔で繰り返しているように見える。その後は、挑戦の原作ありも挟んでいる。
ノイタミナには「アニメの常識を覆したい」という制作スタッフの想いがある。また、F1層を強く意識しているように見える。それは、一時流行したトレンディードラマ的な恋愛模様を強く演出する形で現れることがある。
その手法は『ハチミツとクローバー』ではかなり上手く働いた。『働きマン』では本気で働くというテーマがぼやけた。『のだめカンタービレ』では映像作品で表現することが難しい音楽と向き合うテーマがぼやけた。『図書館戦争』では部隊としての連帯感や闘いの見所から視点がずれていた。
僕の好みといえばそれまでなのだが、作品が提示しているテーマと成り得る設定を蹴っ飛ばして、手軽に一時流行したトレンディードラマ的な要素に逃げているように思えた。堅実な安牌をより強固なものにするため、僕のような盆暗を置いてけ堀にするのもありだが、それが後年になって見返した時に完成度の高い作品であるかどうかを軽視しているように思える。それでも、原作ありをクール分割方式で作るため、間を埋める形で作られる挑戦のオリジナルがあるだけ随分良い。
まず、ゲームが原作のアニメ作品における重要な点として、時間の進み方の違いが挙げられる。大体のゲームはプレイヤーがボタンを押して進める速度で進行するが、アニメは粛々と時計通りに進む。特にテンポについては重要で、ゲームではプレイヤーの選択やそのためのボタンを押すといった主体的行動に対するレスポンスとその速度が中心になりやすい。一方、アニメでは台詞の応酬やアクションとそのためのカットの切り替えといった視聴者の主体的行動の外にある。
ゲームでは適度に速いレスポンスが重要で、冗長や極端に説明的なやりとりは省かれている場合が多い。一方、アニメでは冗長や極端に説明的なやりとりによって、適度に行間を埋める場合が多い。それによって、ゲームという媒体の持っているテンポをアニメという媒体のテンポに変換している。
また、ゲームでなくとも原作のあるアニメ作品において、原作の人気があるということが問題となる場合がある。時として、原作ファンは原作とは違うテンポで見せられることに反感を持つ。それ以外にも、プレイヤーとして主体的行動をしている時には気にならなかった物語が、視聴者としてある程度客観的に見ることになるので、物語として上手く繋がっていない部分が見えたりする。
そう考えると、原作ゲームのテンポを保ちつつ、媒体の違いから生じる行間や繋ぎ方を上手く変換することはかなり難しいと思われる。ましてや、アニメ作品としての商業上の思惑もあるとなると一層難しいだろう。
テーマのある子供向けアニメには、現実に不足している思想とそれに対する大人の理想が分かり易い形で込められていると思う。でも、子供向けアニメは子供という現実を革命しようとはしないし、子ども自身に自分に対する革命を仕向けるでもない。ただただ投げかけてくるだけで、そういうのが欺瞞に思えた時期もあったが、最近はそれで良いと思えるし、何で好きになったのか分かった気がする。見ていた時はワクワク出来て、後になってふとした時、現実と擦り合わせて思い返してみるとグッと来る。やっぱり良いな、そういうのって。
各話数毎にミクロな物語を蓄積することは以前からもあったが、作品全体を通したマクロな物語を踏まえた上で作られていた。今はそういう作品が作り辛くなってきている。よって、マクロな物語を踏まえずに各話数毎にミクロな物語を蓄積することでマクロな物語に拮抗させる方法が台頭してきた。
一方で、昔からある真面目な作りの作品もあって、懐古的な流れもある。一見すると回顧的だが、分析的な見方をする現代の視聴者を意識した作りもあって、必ずしも過去の賛美だけとはいえない。それが90年代後半~00年代の流れ。
理由としては、視聴方法の変化があるだろう。録画視聴に関してはHDDレコーダーが劇的な変化といえる。また、ネットの台頭によって、実況やそれを利用したニコニコ的方法論の発見と動画サイトによって手軽な視聴と補完が可能になったことも大きい。手軽さは視聴の耐久力ともある程度対応していて、マクロな物語から作り込まれた作品を追っかけるのはかなり疲れる。他にも、1クールや実質2クール作品の1クール分割するようなやり方も増えてきたことが挙げられる。それによって、作品の規模が萎み、新しい方法論が必要となった。
まあ、世相の反映といえばそれまでなわけですが……。
これまで、願望充足ものなる表現を幾度となく使ってきたが、よくよく考えてみると誰の願望を充足しているのかははっきりしない。そもそも、その表現されたものは本当に誰かの願望だったのだろうかというと疑問が残る。少なくとも、私自身が望んでいなかったことは多々あった。よって、潜在的に望んでいたと見るのはどうにも怪しい。むしろ、欲望が誘発されて、願望になったと見ることが出来るのではないか。ならば、より適切に欲望誘発ものとでもいうべきだろう。よって、今後はこの表現を使うことにする。
作り手の中でも、今の萌え要素やファンサービス偏重アニメのような作品の氾濫に否定的な者が居るようだ。
一方で、萌えアニメにおいて、アニメとして最高の映像と演出でもって作られた作品には未だ出会えてない。原因は様々だが、それらの作品を見ていると、ブームとか風潮だとかの中で、そこそこに売れ線の作品がだらだらと作られているように思える。確かに、その中に面白い作品もあるし、そういった流れとは間逆の路線で面白いと思える作品を目指して作られているものもある。
しかしながら、僕はあえて、矜持ある職人足る作り手には、萌えとかアンチ萌えの流れを過去に吹き飛ばすような萌えアニメを作って頂きたいと願っている。なぜなら、要素が物語向きでないとか、キャラクター偏重とか、そういうことが作品の面白さでないと信じているからだ。

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