日本左翼的価値観とそこから来る革命賛美の醜悪さ、義賊表現の難しさ。
http://69541.diarynote.jp/201005080032414074/
上記リンクで述べた国産アニメ全般に流れる素朴な感情を主体とした価値観は、日本左翼的価値観やそこから来る革命賛美への排撃となっている。
http://69541.diarynote.jp/201006011230427094/
上記リンクでも述べたように革命の結果起こる不幸を誤魔化すことへの違和感とも関連している。
まとめ
・革命賛美と義賊は似ているが、根拠に違いがある
・義賊表現は匙加減が難しい
・日本左翼的価値観は真摯な自己批判の姿勢に欠けるため醜悪である
・国産アニメ全般に流れる素朴な感情との違和感に気付けば、日本左翼的価値観が醜悪に見える
歴史を搾取する側と搾取される側の階級闘争によって捉えた階級闘争史観は、共産主義者や革命家、特定の左翼における思想の源流ともいえるもので、これは日本左翼的価値観にも含まれる。また、搾取する側と搾取される側とは権力があるかないかかともいえるだろう。今回は、日本左翼的価値観やそこから来る革命賛美と国産アニメ全般に流れる素朴な感情との関連を考えていく。
アニメの作り手、あるいは発信する放送局は権力がある。また、これらの業界にも戦後の公職追放や単なる無法状態から入り込んだか無思慮の類から来る日本左翼的価値観の輩が上流工程に関わるに至っているであろう。ならば、その日本左翼的価値観からすれば、自己が権力として、権力のない側に批判や攻撃を受けてしかるべきであろう。しかしながら、実態は巨悪と闘うと称しながら、商業主義を脱却できず、搾取される側とした対象者の物質的精神的貧しさから来る嫉みや妬みを承認し、煽るような表現を繰り返すばかりであり、自己の価値観でもって自己や自己の利害関係者が批判されるべき状態が放置さ常態化したままである。昨今は自己が盗られることへの恐怖を感じ始めているようだが、未だに仮想敵に自己を含めないため、単なる自己への不満逸らしに過ぎない状態にある。かような姿勢は潔さに欠けるため醜悪の上塗りである。
次に、日本左翼的価値観から来る革命賛美は義賊表現と似ている部分がある。似ている点は、悪辣な輩に非合法な手段で制裁を加え、制裁の結果を貧しい者へと分配することだ。だが、決定的に違うのは、悪であると決めるのが、搾取する側という階級を根拠とするか、素朴な感情による善悪を根拠とするかにある。例えば、搾取する側を殊更に不快に描くことによって正当性を与えたところで、真っ当にやってきた結果得た立場であるか否かには何ら影響しない。つまり、相手の属性によらず、正当な証文は返済されるべきであり、インチキ証文でなければ破り捨てるのは渡世の義理に反する。ねずみ小僧は盗人だが、己が盗人であることを自覚した上で商人から盗んで貧しい庶民へ分け与える。この場合、相手が悪徳であれば義賊だが、善良であればただの盗人である。仮に、善良な者から奪ってしまったのであれば、そのまま返すか、焚きつけた輩を成敗するといった筋立てがなされるだろう。つまり、搾取する側と認定すれば、事の善悪によらず、一方的な略奪や収奪を是とし、略奪や収奪の結果で搾取する側に回ろうとすることが、日本左翼的価値観から来る革命賛美の醜悪さである。要するに、革命賛美は、自分が盗られることは脇に置いて、搾取される側とした対象者の物質的精神的貧しさから来る嫉みや妬み、あるいは快不快を煽って盗ることを正当化した美名でしかない場合が多いということだ。ただでさえ匙加減が難しい上、革命賛美を根底に抱えていては、義賊表現に似せても非なるものが出来るだけであるから、義賊表現が成功を収めにくいのは当然ともいえよう。
今更国産アニメ全般に流れる素朴な感情を真似ようとしたところで、濁った心根の奥底を省みることもなく似て非なるものを生み出すのでは、潔さに欠け、見っともなく、恥知らずなだけだ。あるいは、義賊表現を貶めるための高度なプロパガンダが狙いなのだろうか。全くご苦労なことだが、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の気概もなく、大勢に影響を与えるほどの新しい別の価値を付加することが困難であることから考えて、胡散臭さは容易に見抜かれるはずだ。
長々と理屈を付けずとも、国産アニメ全般に流れる素朴な感情を受け取れれば、違和感に気付くだろう。家庭で、地域で、社会で受け継がれ生活に根ざしてきた偉大なる心の源流に感謝を。
http://69541.diarynote.jp/201005080032414074/
上記リンクで述べた国産アニメ全般に流れる素朴な感情を主体とした価値観は、日本左翼的価値観やそこから来る革命賛美への排撃となっている。
http://69541.diarynote.jp/201006011230427094/
上記リンクでも述べたように革命の結果起こる不幸を誤魔化すことへの違和感とも関連している。
まとめ
・革命賛美と義賊は似ているが、根拠に違いがある
・義賊表現は匙加減が難しい
・日本左翼的価値観は真摯な自己批判の姿勢に欠けるため醜悪である
・国産アニメ全般に流れる素朴な感情との違和感に気付けば、日本左翼的価値観が醜悪に見える
歴史を搾取する側と搾取される側の階級闘争によって捉えた階級闘争史観は、共産主義者や革命家、特定の左翼における思想の源流ともいえるもので、これは日本左翼的価値観にも含まれる。また、搾取する側と搾取される側とは権力があるかないかかともいえるだろう。今回は、日本左翼的価値観やそこから来る革命賛美と国産アニメ全般に流れる素朴な感情との関連を考えていく。
アニメの作り手、あるいは発信する放送局は権力がある。また、これらの業界にも戦後の公職追放や単なる無法状態から入り込んだか無思慮の類から来る日本左翼的価値観の輩が上流工程に関わるに至っているであろう。ならば、その日本左翼的価値観からすれば、自己が権力として、権力のない側に批判や攻撃を受けてしかるべきであろう。しかしながら、実態は巨悪と闘うと称しながら、商業主義を脱却できず、搾取される側とした対象者の物質的精神的貧しさから来る嫉みや妬みを承認し、煽るような表現を繰り返すばかりであり、自己の価値観でもって自己や自己の利害関係者が批判されるべき状態が放置さ常態化したままである。昨今は自己が盗られることへの恐怖を感じ始めているようだが、未だに仮想敵に自己を含めないため、単なる自己への不満逸らしに過ぎない状態にある。かような姿勢は潔さに欠けるため醜悪の上塗りである。
次に、日本左翼的価値観から来る革命賛美は義賊表現と似ている部分がある。似ている点は、悪辣な輩に非合法な手段で制裁を加え、制裁の結果を貧しい者へと分配することだ。だが、決定的に違うのは、悪であると決めるのが、搾取する側という階級を根拠とするか、素朴な感情による善悪を根拠とするかにある。例えば、搾取する側を殊更に不快に描くことによって正当性を与えたところで、真っ当にやってきた結果得た立場であるか否かには何ら影響しない。つまり、相手の属性によらず、正当な証文は返済されるべきであり、インチキ証文でなければ破り捨てるのは渡世の義理に反する。ねずみ小僧は盗人だが、己が盗人であることを自覚した上で商人から盗んで貧しい庶民へ分け与える。この場合、相手が悪徳であれば義賊だが、善良であればただの盗人である。仮に、善良な者から奪ってしまったのであれば、そのまま返すか、焚きつけた輩を成敗するといった筋立てがなされるだろう。つまり、搾取する側と認定すれば、事の善悪によらず、一方的な略奪や収奪を是とし、略奪や収奪の結果で搾取する側に回ろうとすることが、日本左翼的価値観から来る革命賛美の醜悪さである。要するに、革命賛美は、自分が盗られることは脇に置いて、搾取される側とした対象者の物質的精神的貧しさから来る嫉みや妬み、あるいは快不快を煽って盗ることを正当化した美名でしかない場合が多いということだ。ただでさえ匙加減が難しい上、革命賛美を根底に抱えていては、義賊表現に似せても非なるものが出来るだけであるから、義賊表現が成功を収めにくいのは当然ともいえよう。
今更国産アニメ全般に流れる素朴な感情を真似ようとしたところで、濁った心根の奥底を省みることもなく似て非なるものを生み出すのでは、潔さに欠け、見っともなく、恥知らずなだけだ。あるいは、義賊表現を貶めるための高度なプロパガンダが狙いなのだろうか。全くご苦労なことだが、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」の気概もなく、大勢に影響を与えるほどの新しい別の価値を付加することが困難であることから考えて、胡散臭さは容易に見抜かれるはずだ。
長々と理屈を付けずとも、国産アニメ全般に流れる素朴な感情を受け取れれば、違和感に気付くだろう。家庭で、地域で、社会で受け継がれ生活に根ざしてきた偉大なる心の源流に感謝を。
メモ-世界の危機と向き合う為に-
2010年6月12日 アンチプロパガンダ今、世界の危機、世界の仕組み、社会構造と闘う作品に欠けているものとは。
決戦前夜において、恋人や妻と子供達と別れを惜しむ描写はありがちで、盛り上げるために欠かせないものとなっているだろう。家族の為に闘うこと自体は悪いことではない。
しかしながら、決定的に欠けていると言わざるを得ないことがある。そもそも、恋人や妻と子供達の為に闘うことだけが、家族の為に闘うことではない。両親は、兄弟は、祖父母は、友人は、仲間は、どこへ行ったのか。名も知らぬ隣人やこれから生まれ行く子供達の命をも家族の様に慈しみを持って闘う姿はどこへ行った。名も知らぬ隣人やこれから生まれ行く子供達の命をも家族の様に慈しみを持って闘わない姿は、自分と関わりのある者だけを守るべきものとし、結果として世界を守っているだけである。どこか歪んではいないか。
世界の危機、世界の仕組み、社会構造と闘うに際して、守るべきものがあろうとなかろうと、そこに生きる全ての人々を家族の様に慈しみ守ってこそではないか。力があり、愛される者だけが愛してくれる誰かを救える姿に偏り過ぎている。そこには、名も知らぬ隣人やこれから生まれ行く子供達のことが決定的に欠けている。
決戦前夜において、恋人や妻と子供達と別れを惜しむ描写はありがちで、盛り上げるために欠かせないものとなっているだろう。家族の為に闘うこと自体は悪いことではない。
しかしながら、決定的に欠けていると言わざるを得ないことがある。そもそも、恋人や妻と子供達の為に闘うことだけが、家族の為に闘うことではない。両親は、兄弟は、祖父母は、友人は、仲間は、どこへ行ったのか。名も知らぬ隣人やこれから生まれ行く子供達の命をも家族の様に慈しみを持って闘う姿はどこへ行った。名も知らぬ隣人やこれから生まれ行く子供達の命をも家族の様に慈しみを持って闘わない姿は、自分と関わりのある者だけを守るべきものとし、結果として世界を守っているだけである。どこか歪んではいないか。
世界の危機、世界の仕組み、社会構造と闘うに際して、守るべきものがあろうとなかろうと、そこに生きる全ての人々を家族の様に慈しみ守ってこそではないか。力があり、愛される者だけが愛してくれる誰かを救える姿に偏り過ぎている。そこには、名も知らぬ隣人やこれから生まれ行く子供達のことが決定的に欠けている。
メモ-王子と姫の向かう先-
2010年6月1日 アンチプロパガンダアニメに限らず王子が姫を助ける話や類似した話は多い。これは話の型といってもよい。
現状のアニメにおいては、姫を助ける王子ではなく、姫を助ける王子のような役割をする普通の少年が登場する話が圧倒的だ。受け手は普通の男女なのだから、普通の少年の方が感情移入しやすいのだろう。他方、姫も姫ではなく、姫の役割をする普通の少女である場合が多いことも同様の理由からだろう。ここまでは、別段不思議なことではない。
また、王子であれ、姫であれ、互いの恋の成就を阻む婚姻が絡んだ鞘当、幸せな国や家や身分が対立として用意され、苦しみながらも最後には互いに恋する者同士、王子と姫が結ばれる話も多い。王子と姫が結ばれること自体は楽しめるものだが、反対するからといって、簡単に国や家や身分を捨てる場合が多くはないか。駆け落ちしようと何しようと、新しい家庭を築いて暮らせる場所はありもしない楽園ではなく、結局のところ社会であり、国や家や身分に基づいているのではないだろうか。社会を破壊せずに、国や家や身分だけを破壊することは不可能だ。ならば、簡単に国や家や身分を捨てるのではなく、困難でも国や家や身分に祝福された道を探す話に向かってもよいと思うが、現実にそのような話は少ない。
このような背景には、実態を考えず、国や家や身分は固定的で窮屈なものであり、個人の自由や尊厳を奪うとの近代思想が見え隠れしているように思える。個人の自由や尊厳は天が与えるものだと謳うことは結構なのだが、国や家や身分に基づいた社会において実現させるのではなく、国や家や身分を捨て去ることで実現しようとする。結果として、幸せな国や家や身分に基づいた社会が破壊されてしまうことやそこに生きる人々の災難は、刹那的であっても幸せな王子と姫の姿によって薄まっている。
巧妙だが、これで良いのか。本当は、幸せな国や家や身分を悲劇として捉えずに、祝福され繁栄の道を歩んでいく姿が好奇ではなく高貴であろう。それこそが、天でも、国や家や身分によって与えられるものでもなく、先人の生きた歴史や伝統と近代思想とが融合した社会といえないか。
昨今は、アニメにおいて、かつてのように姫も強さを取り戻しつつある。ならば、祝福され繁栄の道を歩んでいく高貴な若者の姿を描く日も近い。それではドラマにならないというのなら、アニメの力を侮るなと言っておく。
現状のアニメにおいては、姫を助ける王子ではなく、姫を助ける王子のような役割をする普通の少年が登場する話が圧倒的だ。受け手は普通の男女なのだから、普通の少年の方が感情移入しやすいのだろう。他方、姫も姫ではなく、姫の役割をする普通の少女である場合が多いことも同様の理由からだろう。ここまでは、別段不思議なことではない。
また、王子であれ、姫であれ、互いの恋の成就を阻む婚姻が絡んだ鞘当、幸せな国や家や身分が対立として用意され、苦しみながらも最後には互いに恋する者同士、王子と姫が結ばれる話も多い。王子と姫が結ばれること自体は楽しめるものだが、反対するからといって、簡単に国や家や身分を捨てる場合が多くはないか。駆け落ちしようと何しようと、新しい家庭を築いて暮らせる場所はありもしない楽園ではなく、結局のところ社会であり、国や家や身分に基づいているのではないだろうか。社会を破壊せずに、国や家や身分だけを破壊することは不可能だ。ならば、簡単に国や家や身分を捨てるのではなく、困難でも国や家や身分に祝福された道を探す話に向かってもよいと思うが、現実にそのような話は少ない。
このような背景には、実態を考えず、国や家や身分は固定的で窮屈なものであり、個人の自由や尊厳を奪うとの近代思想が見え隠れしているように思える。個人の自由や尊厳は天が与えるものだと謳うことは結構なのだが、国や家や身分に基づいた社会において実現させるのではなく、国や家や身分を捨て去ることで実現しようとする。結果として、幸せな国や家や身分に基づいた社会が破壊されてしまうことやそこに生きる人々の災難は、刹那的であっても幸せな王子と姫の姿によって薄まっている。
巧妙だが、これで良いのか。本当は、幸せな国や家や身分を悲劇として捉えずに、祝福され繁栄の道を歩んでいく姿が好奇ではなく高貴であろう。それこそが、天でも、国や家や身分によって与えられるものでもなく、先人の生きた歴史や伝統と近代思想とが融合した社会といえないか。
昨今は、アニメにおいて、かつてのように姫も強さを取り戻しつつある。ならば、祝福され繁栄の道を歩んでいく高貴な若者の姿を描く日も近い。それではドラマにならないというのなら、アニメの力を侮るなと言っておく。
メモ-アニメに受け継がれる武士道-
2010年5月25日 アンチプロパガンダ今回は、アニメとはどういうものかを改めて考える。
アニメーションにおける動きとは錯覚を使った技術である。人の目は、微細な変化の付いた止まっている絵を連続で見せることで動いていると補完出来る。ないことをあるように見せるといっても良い。
物語の多くはフィクションであり、物語を表現するとなると、ありそうだけどないことをあるように見せたり、ありもしないことをあるように見せる。前者は想定、後者は妄想といったところか。これは動きのための技術が持っている本質と似ている。
物語を錯覚技術によって映像に仕上げたものがアニメーションである。実写との決定的な違いは、偽物を偽物によって本物に近づけようと組み立てている。所詮は偽物であるが、あえて偽物を本物として楽しめるところに本質がある。
アニメといえば、日本産のアニメーションを指して使われる用語として定着している。では、アニメとアニメーションの違いを考えてみる。
技術的には、秒間の枚数に差があることを挙げる場合が多い。最初期においては、金銭上仕方なかった面もあるが、現在では部分や全体をあえて少ない枚数で表現している側面がある。従って、枚数の違いというよりは、枚数を超えた緩急の付け方の違いと考えられる。
物語的には、漫画やライトノベルによる原作媒体の豊富さや世界的に見て物語における制限の少なさが挙げられる。独自の発展を遂げた原作媒体の豊富さは確かにあるが、映像であるアニメにする際には、緩急の付け方が違っている場合が大半であり、翻訳的な改変が必要である。だが、物語で表現されている内容に共通して見られるものがある。それは、あえて明文や題目にせずとも、内なるものから来る感覚でことにあたれることだ。この内なるものとは、権威や法でもなく、神や仏のように超越した存在でもなく、人としての己から来る人道である。悪逆を出来るのにあえてしないことは、アニメーションよりはアニメの本質に近い。また、人を殺せる武器を持ちながら人を殺さずに活かすこととも似ている。これは、武士道的な心である。従って、アニメには武士道が受け継がれていると考えてよい。
世界文明において希有な道徳観を持つ日本だからこそ、日本でアニメーションの動きや演出の技術が向上していく中で独自性を持ちアニメーションとは異なる意味合いでアニメと呼ばれるものになったと考えられる。
アニメーションにおける動きとは錯覚を使った技術である。人の目は、微細な変化の付いた止まっている絵を連続で見せることで動いていると補完出来る。ないことをあるように見せるといっても良い。
物語の多くはフィクションであり、物語を表現するとなると、ありそうだけどないことをあるように見せたり、ありもしないことをあるように見せる。前者は想定、後者は妄想といったところか。これは動きのための技術が持っている本質と似ている。
物語を錯覚技術によって映像に仕上げたものがアニメーションである。実写との決定的な違いは、偽物を偽物によって本物に近づけようと組み立てている。所詮は偽物であるが、あえて偽物を本物として楽しめるところに本質がある。
アニメといえば、日本産のアニメーションを指して使われる用語として定着している。では、アニメとアニメーションの違いを考えてみる。
技術的には、秒間の枚数に差があることを挙げる場合が多い。最初期においては、金銭上仕方なかった面もあるが、現在では部分や全体をあえて少ない枚数で表現している側面がある。従って、枚数の違いというよりは、枚数を超えた緩急の付け方の違いと考えられる。
物語的には、漫画やライトノベルによる原作媒体の豊富さや世界的に見て物語における制限の少なさが挙げられる。独自の発展を遂げた原作媒体の豊富さは確かにあるが、映像であるアニメにする際には、緩急の付け方が違っている場合が大半であり、翻訳的な改変が必要である。だが、物語で表現されている内容に共通して見られるものがある。それは、あえて明文や題目にせずとも、内なるものから来る感覚でことにあたれることだ。この内なるものとは、権威や法でもなく、神や仏のように超越した存在でもなく、人としての己から来る人道である。悪逆を出来るのにあえてしないことは、アニメーションよりはアニメの本質に近い。また、人を殺せる武器を持ちながら人を殺さずに活かすこととも似ている。これは、武士道的な心である。従って、アニメには武士道が受け継がれていると考えてよい。
世界文明において希有な道徳観を持つ日本だからこそ、日本でアニメーションの動きや演出の技術が向上していく中で独自性を持ちアニメーションとは異なる意味合いでアニメと呼ばれるものになったと考えられる。
メモ-ロボットアニメが警鐘する思考の罠-
2010年5月13日 アンチプロパガンダ本文では、ロボットアニメとは、巨大ロボットアニメを指すものとする。
ロボットアニメの多くが専守防衛型だとはhttp://69541.diarynote.jp/201005030646578062/で既に述べたが、専守防衛に潜む問題を考えてみる。
我が敵の攻撃に対して反撃を選択するのではなく、選択肢が反撃のみであることは問題である。これは、敵の攻撃を受けなければ、我が攻撃出来ないとも言い換えられる。また、反撃に目が行くと忘れがちだが、敵の攻撃を受けると損害が発生する。さらに、敵が攻撃のための準備をしていても、我は敵に先んじて攻撃を行うことが出来ない。我が反撃しか出来ないことは、敵が我を反撃不可能にする規模の攻撃を行った場合、我は反撃出来ずに一方的に壊滅的な損害を被ることを意味する。フィクションでは直接の表現を避けられがちだが、壊滅的な損害とは、建築物の破壊や人命の喪失である。現実的には、迎撃や先制攻撃等によって、敵が被ると予想される損害から、攻撃を躊躇させる効果があり、これは抑止力と言えよう。しかしながら、ロボットアニメにおいては、反撃に特化した専守防衛型の方が、正々堂々と敵を討ち破る印象になるためか、迎撃や先制攻撃は軽視される。
物語において心地よくて有効な方法が、現実において心地よくても有効な方法ではない点は、思考の罠といえよう。ロボットアニメが、このような思考の罠を何年にも渡って表現してきたことは、ロボットアニメからの警鐘と言えよう。
ロボットアニメの多くが専守防衛型だとはhttp://69541.diarynote.jp/201005030646578062/で既に述べたが、専守防衛に潜む問題を考えてみる。
我が敵の攻撃に対して反撃を選択するのではなく、選択肢が反撃のみであることは問題である。これは、敵の攻撃を受けなければ、我が攻撃出来ないとも言い換えられる。また、反撃に目が行くと忘れがちだが、敵の攻撃を受けると損害が発生する。さらに、敵が攻撃のための準備をしていても、我は敵に先んじて攻撃を行うことが出来ない。我が反撃しか出来ないことは、敵が我を反撃不可能にする規模の攻撃を行った場合、我は反撃出来ずに一方的に壊滅的な損害を被ることを意味する。フィクションでは直接の表現を避けられがちだが、壊滅的な損害とは、建築物の破壊や人命の喪失である。現実的には、迎撃や先制攻撃等によって、敵が被ると予想される損害から、攻撃を躊躇させる効果があり、これは抑止力と言えよう。しかしながら、ロボットアニメにおいては、反撃に特化した専守防衛型の方が、正々堂々と敵を討ち破る印象になるためか、迎撃や先制攻撃は軽視される。
物語において心地よくて有効な方法が、現実において心地よくても有効な方法ではない点は、思考の罠といえよう。ロボットアニメが、このような思考の罠を何年にも渡って表現してきたことは、ロボットアニメからの警鐘と言えよう。
メモ-ロボットアニメの歴史に潜む共和制賛歌とそれを超えた伝統-
2010年5月9日 アンチプロパガンダ本文では、ロボットアニメとは、巨大ロボットアニメを指すものとする。
スーパーロボットとリアルロボットの違いはほとんどないのだが、あえて挙げるなら、ロボットが軍事組織に属しているかどうか、神秘的な力に守られているかどうか、兵器として運用されるロボットであるかどうかと、それに一定の妥当性を感じる物語と設定があるかどうかが挙げられるだろう。
『機動戦士ガンダム』はリアルロボットの元祖として挙げられることが多い。この作品では、ロボットが軍事組織に属しており、神秘的な力に守られておらず、兵器として運用されるロボットであり、政治的な駆け引きや心理にも一定の妥当性を感じる物語だろう。そして、主人公が父親の開発したロボットを縁あって操縦することとなる。これは、力の継承と言える。また、ロボットは他のキャラクターでも操縦可能なのだが、特異な能力を開花させて親と決別してなお名実共にロボットの専属操縦を継承し、敵の親玉を倒しての勝利で終わるのではなく、絆を深めた仲間の元へ帰る終わり方になっている。
『機動戦士ガンダム』では、敵は絶対君主国家であり、味方は共和制らしき地球連邦である。しかしながら、共和制らしきと表現したように、地球連邦では特に最高指導者が描かれることが無い。また、後に続くリアルロボット路線がほとんど共和制一色で、まるで戦後のアメリカへの憧れを体現したかのような状況であり、それを見て育った世代が再生産してきたように見受けられる。このような共和制賛歌とも呼べるものを作り続けたリアルロボットアニメにおいて、先駆者である『機動戦士ガンダム』が共和制賛歌ではなく、親子の関係や仲間の関係といった素朴な営みに重点をおいて始まったことは幸いだったといえる。
結局の所、スーパーロボットとリアルロボットの区別に関係なく、ロボットアニメでは、家族や先祖とその延長にある古代や現代の文明、もしくは、神やそれに類する超越した存在から継承した力であるロボットを使って、素朴な優しさとそれに基づく正義感を実行するのが特徴だ。また、素朴な優しさとそれに基づく正義感を持たない、もしくは、肝心な場面で機を逸して実行出来ない主人公は、万人に好かれるキャラクター足り得ない。それを何十年にも渡って、闘いを通して分かり易く見せ続けてきたのが、ロボットアニメであり、だから愛されているのだ。それを忘れて、ただ、古臭い表現だとオシャレで誤魔化し、共和制賛歌を補強するプロパガンダとしてロボットアニメを発信しても、万人の胸を打つことはあり得ない。
共和制賛歌に感化され憧れるのは自由だが、現実の日本は立憲君主制であり、いざ実現するとなると、日々を暮らして歴史と文化と伝統を紡いできた人々の営みを破壊することをゆめゆめ忘れてはならない。それでもなお、破壊を行おうとするのなら、破壊から人々の営みを守り続けてきたロボットアニメの歴史がそれを否定するだろう。
スーパーロボットとリアルロボットの違いはほとんどないのだが、あえて挙げるなら、ロボットが軍事組織に属しているかどうか、神秘的な力に守られているかどうか、兵器として運用されるロボットであるかどうかと、それに一定の妥当性を感じる物語と設定があるかどうかが挙げられるだろう。
『機動戦士ガンダム』はリアルロボットの元祖として挙げられることが多い。この作品では、ロボットが軍事組織に属しており、神秘的な力に守られておらず、兵器として運用されるロボットであり、政治的な駆け引きや心理にも一定の妥当性を感じる物語だろう。そして、主人公が父親の開発したロボットを縁あって操縦することとなる。これは、力の継承と言える。また、ロボットは他のキャラクターでも操縦可能なのだが、特異な能力を開花させて親と決別してなお名実共にロボットの専属操縦を継承し、敵の親玉を倒しての勝利で終わるのではなく、絆を深めた仲間の元へ帰る終わり方になっている。
『機動戦士ガンダム』では、敵は絶対君主国家であり、味方は共和制らしき地球連邦である。しかしながら、共和制らしきと表現したように、地球連邦では特に最高指導者が描かれることが無い。また、後に続くリアルロボット路線がほとんど共和制一色で、まるで戦後のアメリカへの憧れを体現したかのような状況であり、それを見て育った世代が再生産してきたように見受けられる。このような共和制賛歌とも呼べるものを作り続けたリアルロボットアニメにおいて、先駆者である『機動戦士ガンダム』が共和制賛歌ではなく、親子の関係や仲間の関係といった素朴な営みに重点をおいて始まったことは幸いだったといえる。
結局の所、スーパーロボットとリアルロボットの区別に関係なく、ロボットアニメでは、家族や先祖とその延長にある古代や現代の文明、もしくは、神やそれに類する超越した存在から継承した力であるロボットを使って、素朴な優しさとそれに基づく正義感を実行するのが特徴だ。また、素朴な優しさとそれに基づく正義感を持たない、もしくは、肝心な場面で機を逸して実行出来ない主人公は、万人に好かれるキャラクター足り得ない。それを何十年にも渡って、闘いを通して分かり易く見せ続けてきたのが、ロボットアニメであり、だから愛されているのだ。それを忘れて、ただ、古臭い表現だとオシャレで誤魔化し、共和制賛歌を補強するプロパガンダとしてロボットアニメを発信しても、万人の胸を打つことはあり得ない。
共和制賛歌に感化され憧れるのは自由だが、現実の日本は立憲君主制であり、いざ実現するとなると、日々を暮らして歴史と文化と伝統を紡いできた人々の営みを破壊することをゆめゆめ忘れてはならない。それでもなお、破壊を行おうとするのなら、破壊から人々の営みを守り続けてきたロボットアニメの歴史がそれを否定するだろう。
メモ-伝統的価値観-
2010年5月8日 アンチプロパガンダ国産アニメ全般に流れる素朴な感情について考える。
素朴な感情、取り分け素朴な優しさ(愛と呼ばれる場合も)は、恐らく国産アニメの大半が持ち合わせているものだろう。素朴な優しさとは、公平に公正に行われる善意である。特別な力を持った者から、普通の者まで、老若男女を問わず、キャラクターであれば、人、人外の異形、機械といった対象を問わず、仲間であるかどうかを問わず時には敵でさえも助けたり、幸せであって欲しいと願う。そこには、打算や妥協、主義主張を超えたただ素朴な感情があり、理想的な姿が描かれている。これは、子供向けアニメのヒーロー像として顕著なものだが、敵と闘う作品だけでなく、多くの作品の登場人物で普遍的に描かれている感情だろう。
その一例として、萌えアニメ、主人公と沢山の主人公に好意を抱くヒロインが登場するアニメを考えてみる。
現実において、人を好きになる理由は論理的に説明しきれるものではないだろう。しかしながら、萌えアニメでは、主人公が素朴な優しさを持ち合わせており、そこに惹かれるヒロインの描写が多く見られる。つまり、素朴な優しさによって、人を好きになることを論理的に仕立て、都合よく好かれる主人公を客観的に眺める視聴者に対して、一応の正当性を見せていると考えられる。
このように、素朴な優しさは受け継がれるヒーロー像であり、多くの作品において普遍の道徳的なものとして受け継がれている。だから、根っからの悪党には素朴な優しさが無いものとして描かれ、根っからの悪党でない悪党は時折素朴な優しさが描かれる。
これは、プロパガンダ的ではあるものの、アニメに限らず存在している中々に否定しがたい感情であり、良く言えば情に篤い、悪く言えばお人よしな我々の伝統的価値観と言えよう。問題は、その感情を逆手に取って搾取しようとする輩である。変なプロパガンダを素朴な優しさで覆い、それなりに面白く仕上げてある作品の狡猾さ、それは末端の人員のミクロレベルでの奮闘が、作品というマクロレベルに結集すると変なプロパガンダに正当性を与えるという誤謬になる状況であり、怒りを禁じ得ないのである。
素朴な感情、取り分け素朴な優しさ(愛と呼ばれる場合も)は、恐らく国産アニメの大半が持ち合わせているものだろう。素朴な優しさとは、公平に公正に行われる善意である。特別な力を持った者から、普通の者まで、老若男女を問わず、キャラクターであれば、人、人外の異形、機械といった対象を問わず、仲間であるかどうかを問わず時には敵でさえも助けたり、幸せであって欲しいと願う。そこには、打算や妥協、主義主張を超えたただ素朴な感情があり、理想的な姿が描かれている。これは、子供向けアニメのヒーロー像として顕著なものだが、敵と闘う作品だけでなく、多くの作品の登場人物で普遍的に描かれている感情だろう。
その一例として、萌えアニメ、主人公と沢山の主人公に好意を抱くヒロインが登場するアニメを考えてみる。
現実において、人を好きになる理由は論理的に説明しきれるものではないだろう。しかしながら、萌えアニメでは、主人公が素朴な優しさを持ち合わせており、そこに惹かれるヒロインの描写が多く見られる。つまり、素朴な優しさによって、人を好きになることを論理的に仕立て、都合よく好かれる主人公を客観的に眺める視聴者に対して、一応の正当性を見せていると考えられる。
このように、素朴な優しさは受け継がれるヒーロー像であり、多くの作品において普遍の道徳的なものとして受け継がれている。だから、根っからの悪党には素朴な優しさが無いものとして描かれ、根っからの悪党でない悪党は時折素朴な優しさが描かれる。
これは、プロパガンダ的ではあるものの、アニメに限らず存在している中々に否定しがたい感情であり、良く言えば情に篤い、悪く言えばお人よしな我々の伝統的価値観と言えよう。問題は、その感情を逆手に取って搾取しようとする輩である。変なプロパガンダを素朴な優しさで覆い、それなりに面白く仕上げてある作品の狡猾さ、それは末端の人員のミクロレベルでの奮闘が、作品というマクロレベルに結集すると変なプロパガンダに正当性を与えるという誤謬になる状況であり、怒りを禁じ得ないのである。
メモ-抑止力の間接的解体-
2010年5月7日 アンチプロパガンダ悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメについて考えてみる。
悪の軍隊とは、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家やそのような主張を肯定する集団の軍隊であり、軍隊内の悪とは、比較的正当性のある国家や集団の軍隊にあって、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺しようとする一部、とりわけ腐敗した上層部として描かれるものとそれに従って行動する下級兵士によって表現される。
現実の民主政体においては、軍隊は文民によって統制されていることを踏まえておく。よって、悪の軍隊は背景の国家や集団の文民が悪なので再生不能だが、軍隊内の悪については排除することにより文民が健全に運用出来ると考えられる。
悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメにおいて、主人公達は悪の軍隊や軍隊内の悪と闘うことになる。そこでの主人公達の描かれ方は、パルチザンに似ており、一定の正当性を与えられている。まあ、正義が悪を倒す話にすれば分かり易くなるので、当然といえば当然だろう。
また、そこでは悪の軍隊や軍隊内の悪の軍事行動によって、民間人や対峙するパルチザンの面々が負傷や死傷する場合、過剰に異様で残酷な表現がなされる。そして、過剰に異様で残酷な表現に対する嫌悪感を、作品内でそれを実行している軍隊への嫌悪感に摩り替える効果がある。嫌悪感を持つことは純真さの裏返しでもあるのだが、それを都合良く利用されている。
悪の軍隊や軍隊内の悪は正しい抑止力を体現していない。では、正しい抑止力を体現している軍隊はというと、悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメでは勿論、他のアニメでもほとんど描かれていない。
このように、正しい姿よりも正しくない姿が圧倒的な状況を続けることで、軍隊そのものを貶めているのだが、これは抑止力の間接的な解体と国軍創設の阻止を体現していると言えるだろう。
このような現象は、子供向けの作品ではほぼ存在せず、専らティーン向けの作品で見られる。流石に、子供に過剰に異様で残酷な表現を見せたり、嘘は付けないのだろうと信じたいのだが、ティーンには過剰に異様で残酷な表現を見せたり、嘘を付けるようなので、子供の理解力を侮っているか、一定の教育を受けたティーンに相乗効果を狙って仕掛けているのかと見るのが筋か。
いずれにしても、酷いプロパガンダだ。ふざけるな、作り手としての矜持は無いのか。多感なティーンの純真を振り回して、変なパルチザン気取りも大概にしろ!
悪の軍隊とは、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家やそのような主張を肯定する集団の軍隊であり、軍隊内の悪とは、比較的正当性のある国家や集団の軍隊にあって、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺しようとする一部、とりわけ腐敗した上層部として描かれるものとそれに従って行動する下級兵士によって表現される。
現実の民主政体においては、軍隊は文民によって統制されていることを踏まえておく。よって、悪の軍隊は背景の国家や集団の文民が悪なので再生不能だが、軍隊内の悪については排除することにより文民が健全に運用出来ると考えられる。
悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメにおいて、主人公達は悪の軍隊や軍隊内の悪と闘うことになる。そこでの主人公達の描かれ方は、パルチザンに似ており、一定の正当性を与えられている。まあ、正義が悪を倒す話にすれば分かり易くなるので、当然といえば当然だろう。
また、そこでは悪の軍隊や軍隊内の悪の軍事行動によって、民間人や対峙するパルチザンの面々が負傷や死傷する場合、過剰に異様で残酷な表現がなされる。そして、過剰に異様で残酷な表現に対する嫌悪感を、作品内でそれを実行している軍隊への嫌悪感に摩り替える効果がある。嫌悪感を持つことは純真さの裏返しでもあるのだが、それを都合良く利用されている。
悪の軍隊や軍隊内の悪は正しい抑止力を体現していない。では、正しい抑止力を体現している軍隊はというと、悪の軍隊や軍隊内の悪と闘う姿を描いたアニメでは勿論、他のアニメでもほとんど描かれていない。
このように、正しい姿よりも正しくない姿が圧倒的な状況を続けることで、軍隊そのものを貶めているのだが、これは抑止力の間接的な解体と国軍創設の阻止を体現していると言えるだろう。
このような現象は、子供向けの作品ではほぼ存在せず、専らティーン向けの作品で見られる。流石に、子供に過剰に異様で残酷な表現を見せたり、嘘は付けないのだろうと信じたいのだが、ティーンには過剰に異様で残酷な表現を見せたり、嘘を付けるようなので、子供の理解力を侮っているか、一定の教育を受けたティーンに相乗効果を狙って仕掛けているのかと見るのが筋か。
いずれにしても、酷いプロパガンダだ。ふざけるな、作り手としての矜持は無いのか。多感なティーンの純真を振り回して、変なパルチザン気取りも大概にしろ!
メモ-統一国家や国家連合の現時味-
2010年5月6日 アンチプロパガンダ政治や軍事に深く絡んだ戦争や紛争を扱うアニメにおいて、しばしば登場する統一国家や国家連合に正当性や現実味はあるのかについて考える。
国家の正当性とは、平和を愛し、公正と信義をもって、国家と国民を守ることにある。では、上述した統一国家や国家連合にそれがあるのだろうか。
現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家が存在している。このような国家が統一国家や国家連合に加わることは、その正当性を貶めることになる。ただし、外交的な圧力によって、加えざるを得ない状況を用意すれば、現実味は与えることが出来るだろう。しかしながら、そのような描写は一切ない。よって、全く現実味が無い。
そのような作品では、現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家が加わっているにもかかわらず、統一国家や国家連合は正当性を持ったものとして描かれている。
つまり、正当性を持って描かれている統一国家や国家連合に、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家を加えることで、現実において自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家に対し、間接的に正当性を持っているかのような印象を与えることが出来る。そもそも、現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家をそのような国家ではないように描いている。
作品の面白さとは関係ない部分もあるが、これをプロパガンダと言わずして、何をプロパガンダと言うのか。意図を全く隠さなくなってきたというのに、批判も出来ない批評家共々、いい加減にしろ!
国家の正当性とは、平和を愛し、公正と信義をもって、国家と国民を守ることにある。では、上述した統一国家や国家連合にそれがあるのだろうか。
現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家が存在している。このような国家が統一国家や国家連合に加わることは、その正当性を貶めることになる。ただし、外交的な圧力によって、加えざるを得ない状況を用意すれば、現実味は与えることが出来るだろう。しかしながら、そのような描写は一切ない。よって、全く現実味が無い。
そのような作品では、現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家が加わっているにもかかわらず、統一国家や国家連合は正当性を持ったものとして描かれている。
つまり、正当性を持って描かれている統一国家や国家連合に、自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家を加えることで、現実において自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家に対し、間接的に正当性を持っているかのような印象を与えることが出来る。そもそも、現実に自国や周辺地域において、虐殺を行い、強制収容による強制労働を課し、言論やその他諸々の文化的な最低限度の生活を送る権利を封殺している国家をそのような国家ではないように描いている。
作品の面白さとは関係ない部分もあるが、これをプロパガンダと言わずして、何をプロパガンダと言うのか。意図を全く隠さなくなってきたというのに、批判も出来ない批評家共々、いい加減にしろ!
メモ-立憲君主は何処だ-
2010年5月4日 アンチプロパガンダ多くのアニメにおいて、立憲君主国家や立憲君主の話は奇妙と言える程に登場しない。日本は民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家であるにもかかわらずだ。
たかがアニメで恐れ多いという自主規制的な部分はあるのかもしれないが、政治や軍事を扱った作品やその中でも表現が優れていると評される作品でさえ、国体はというと立憲君主制についてはほとんど登場しない。そこで登場するのは、専ら共和制と絶対君主制である。
現実において、民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家があり、日本もそのような国家であろう。ならば、本質を追求する誰かが、民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家を描いた作品を作ってもよいのだが、日本的価値観の登場人物の祖国やそのもの日本を描いた作品でさえほとんど登場しない。この意味する所は、作り手に特定の意図があるか、逆に全く無いかのどちらかのように思える。
政治や軍事を扱った作品の中でも、主人公達を日本人的な人物として描く場合は、国体がはっきり描かれなくとも、日本的価値観が描かれているのならば、裏打ちするものがある分まだましだ。しかし、日本人的価値観もないのに日本人的な人物として描かれ、国体がはっきり描かれないか現実とは異なった国体で政治や軍事を扱った作品がありはしないか。
そのような作品は、現実世界と比べてみると、矛盾を感じる部分がありはしないだろうか。プロパガンダ的側面を持ってはいないだろうか。
たかがアニメで恐れ多いという自主規制的な部分はあるのかもしれないが、政治や軍事を扱った作品やその中でも表現が優れていると評される作品でさえ、国体はというと立憲君主制についてはほとんど登場しない。そこで登場するのは、専ら共和制と絶対君主制である。
現実において、民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家があり、日本もそのような国家であろう。ならば、本質を追求する誰かが、民主的でありながら、同時に立憲君主の存在する国家を描いた作品を作ってもよいのだが、日本的価値観の登場人物の祖国やそのもの日本を描いた作品でさえほとんど登場しない。この意味する所は、作り手に特定の意図があるか、逆に全く無いかのどちらかのように思える。
政治や軍事を扱った作品の中でも、主人公達を日本人的な人物として描く場合は、国体がはっきり描かれなくとも、日本的価値観が描かれているのならば、裏打ちするものがある分まだましだ。しかし、日本人的価値観もないのに日本人的な人物として描かれ、国体がはっきり描かれないか現実とは異なった国体で政治や軍事を扱った作品がありはしないか。
そのような作品は、現実世界と比べてみると、矛盾を感じる部分がありはしないだろうか。プロパガンダ的側面を持ってはいないだろうか。
メモ-ロボットアニメの根底-
2010年5月3日 アンチプロパガンダロボットアニメを大きく分けると、専守防衛型と競争型と共存型とこれらの複合型に分けられる。
専守防衛型は敵に対してロボットでの防衛や反撃を行う。競争型はロボットを使って勝負を行う。共存型はロボットと共に暮らす。
恐らく、ロボットアニメと言えば、専守防衛型の作品を思い浮かべる人が多いだろう。今回は、専守防衛型のロボットアニメにおいて、ロボットとはどのような存在なのかを考えることで、ロボットアニメの根底を探る。
型を問わず、多くの作品において、ロボットは現在よりも進んだ技術や技術を超越した技術で作られており、主人公は少年や青年といった若者である。また、専守防衛型の作品では、ロボットの力が勝敗に影響する。つまり、ロボットとは力の象徴である。(より正確にいうと競争型の作品も含む)さらに、ロボットを操縦して何かを守るために敵と闘わなければならない。
次に、ロボットと主人公の関係を考えてみる。
多くの作品において、主人公は色々な偶然が重なってロボットを操縦することになる。また、ロボットを作った存在を大きく分けると、家族や先祖とその延長にある古代や現代の文明が作ったものと、神やそれに類する超越した存在が作ったものとに分けられる。(ほとんどは前者である)そして、主人公へのロボットの受け渡しに注目すると、受け渡しや操縦命令が明確に行われるか、既に行われている場合が多い。その上で、最終的にはロボットを主体的に操縦して専守防衛に努める。
つまり、専守防衛型の作品では、どのような経緯で誰が作ったものを操縦するかに相違はあるが、何者かの願いや命を受けて主体的に敵と闘う点が共通した作品だといえる。
ここで、ロボットが親族やその延長にある古代や現代の文明が作ったものであることについて考えてみる。
ほとんどの専守防衛型の作品における状況を省略せずに正確に述べると、「敵の出現に際し親族やその延長にある現代や古代の文明が作ったロボットを主人公が操縦することになる」といえる。そこでのロボットは主人公の少年に継承されているに等しい。また、現実の世界における少年が継承するものを考えると、自身も含めた命、家族や社会に国家といった共同体、公私を含めた財産、文化、伝統、歴史などが挙げられるだろう。加えて、それら継承したものに対して、権利と義務が生じていることを挙げておく。つまり、専守防衛型の作品におけるロボットとは、これまで少年が普遍的に継承してきたり、これからするであろうものの象徴であると考えられる。
ほとんどのロボットアニメは、家族や先祖、その仲間である現代や古代の文明から大いなる力を継承し、大いなる力を扱える権利で大いなる力を扱っての義務を果たすため、自らの意志を持って敵と闘うものだ。
専守防衛型は敵に対してロボットでの防衛や反撃を行う。競争型はロボットを使って勝負を行う。共存型はロボットと共に暮らす。
恐らく、ロボットアニメと言えば、専守防衛型の作品を思い浮かべる人が多いだろう。今回は、専守防衛型のロボットアニメにおいて、ロボットとはどのような存在なのかを考えることで、ロボットアニメの根底を探る。
型を問わず、多くの作品において、ロボットは現在よりも進んだ技術や技術を超越した技術で作られており、主人公は少年や青年といった若者である。また、専守防衛型の作品では、ロボットの力が勝敗に影響する。つまり、ロボットとは力の象徴である。(より正確にいうと競争型の作品も含む)さらに、ロボットを操縦して何かを守るために敵と闘わなければならない。
次に、ロボットと主人公の関係を考えてみる。
多くの作品において、主人公は色々な偶然が重なってロボットを操縦することになる。また、ロボットを作った存在を大きく分けると、家族や先祖とその延長にある古代や現代の文明が作ったものと、神やそれに類する超越した存在が作ったものとに分けられる。(ほとんどは前者である)そして、主人公へのロボットの受け渡しに注目すると、受け渡しや操縦命令が明確に行われるか、既に行われている場合が多い。その上で、最終的にはロボットを主体的に操縦して専守防衛に努める。
つまり、専守防衛型の作品では、どのような経緯で誰が作ったものを操縦するかに相違はあるが、何者かの願いや命を受けて主体的に敵と闘う点が共通した作品だといえる。
ここで、ロボットが親族やその延長にある古代や現代の文明が作ったものであることについて考えてみる。
ほとんどの専守防衛型の作品における状況を省略せずに正確に述べると、「敵の出現に際し親族やその延長にある現代や古代の文明が作ったロボットを主人公が操縦することになる」といえる。そこでのロボットは主人公の少年に継承されているに等しい。また、現実の世界における少年が継承するものを考えると、自身も含めた命、家族や社会に国家といった共同体、公私を含めた財産、文化、伝統、歴史などが挙げられるだろう。加えて、それら継承したものに対して、権利と義務が生じていることを挙げておく。つまり、専守防衛型の作品におけるロボットとは、これまで少年が普遍的に継承してきたり、これからするであろうものの象徴であると考えられる。
ほとんどのロボットアニメは、家族や先祖、その仲間である現代や古代の文明から大いなる力を継承し、大いなる力を扱える権利で大いなる力を扱っての義務を果たすため、自らの意志を持って敵と闘うものだ。
メモ-料理を題材にしたアニメに見る文化と心-
2010年5月2日 アンチプロパガンダ料理を題材にしたアニメを大きく分けると、日常における料理を扱った作品と、料理人における日常を扱った作品に分けられる。
日常における料理を扱った作品は『クッキングパパ』が挙げられる。この作品では、家族や職場とそこでの人間関係といった日常が描かれ、その中でキャラクターが料理を振舞う形であり、味を競うことはほぼない。
料理人における日常を扱った作品は『ミスター味っ子』が挙げられる。この作品では、大衆食堂の息子が料理人として、色々な料理勝負を経て成長していく姿が描かれている。
料理を題材にした勝負といっても、単に技術の勝る方が勝つのではない。独創性が勝負の分かれ目になることも多いが、根底にあるのは食べる人の喜びを追及しているかどうかの理念であり、如何に技術や独創性に優れていようとも理念無き者は敗れる。また、お互いに理念を追求した上での勝負や同じ求道者としての情が見所といえる。そこまで来ると、勝ち負けを決める意味が無いようにすら思えるが、勝ち負けを決める話は分かり易い点を挙げておきたい。
両者の相違点は、料理の味を競い、一応の勝ち負けを付けるかどうかだ。一方、共通点は、美味しい料理を作って食べてもらおうとする姿勢とそのための手間暇だ。
そこから考えると、相違点に挙げたものは、共通点に挙げたものを見せるための方法の違いであって、根の部分では同じテーマを持った作品だといえる。
別段、悪人や金儲け第一でも美味い料理が作れないわけではないのだが、勝負のあやとなるのが理念である点は、正々堂々の精神を体現したものであり、それが受け入れられる文化や価値観が背景にあると考えられる。要は、美味い料理を作ることは手段であり、目的は食べてもらう人の幸せにある。
なぜ、良いものをつくるのか。それは、享受する人に幸せを与えるからであり、そこに矜持があるからだ。
日常における料理を扱った作品は『クッキングパパ』が挙げられる。この作品では、家族や職場とそこでの人間関係といった日常が描かれ、その中でキャラクターが料理を振舞う形であり、味を競うことはほぼない。
料理人における日常を扱った作品は『ミスター味っ子』が挙げられる。この作品では、大衆食堂の息子が料理人として、色々な料理勝負を経て成長していく姿が描かれている。
料理を題材にした勝負といっても、単に技術の勝る方が勝つのではない。独創性が勝負の分かれ目になることも多いが、根底にあるのは食べる人の喜びを追及しているかどうかの理念であり、如何に技術や独創性に優れていようとも理念無き者は敗れる。また、お互いに理念を追求した上での勝負や同じ求道者としての情が見所といえる。そこまで来ると、勝ち負けを決める意味が無いようにすら思えるが、勝ち負けを決める話は分かり易い点を挙げておきたい。
両者の相違点は、料理の味を競い、一応の勝ち負けを付けるかどうかだ。一方、共通点は、美味しい料理を作って食べてもらおうとする姿勢とそのための手間暇だ。
そこから考えると、相違点に挙げたものは、共通点に挙げたものを見せるための方法の違いであって、根の部分では同じテーマを持った作品だといえる。
別段、悪人や金儲け第一でも美味い料理が作れないわけではないのだが、勝負のあやとなるのが理念である点は、正々堂々の精神を体現したものであり、それが受け入れられる文化や価値観が背景にあると考えられる。要は、美味い料理を作ることは手段であり、目的は食べてもらう人の幸せにある。
なぜ、良いものをつくるのか。それは、享受する人に幸せを与えるからであり、そこに矜持があるからだ。