バトル作品において主人公の最初期や作品全体を通しての好敵手、あるいはボスから仲間になったキャラ、いわゆる二番手の扱いと限界について。


まとめ
・TCGは他の玩具と比べて文面が存在するので定量的
・二番手にゲームで負けそうになったボスが盤外戦で勝つのは大人気ない
・二番手とボスの闘いにも一工夫欲しい


徒手や武装、あるいは玩具やゲームを使ったバトル作品において、ボスと世界の命運を背負って闘い倒すのは主人公と相場が決まっている。そこでは二番手の力の有無に限らず、ボスをどれ程追い込もうとも必ず負ける展開が待っている。例外として、ボスが複数居る場合は倒せることもあるが、最後に残った一番強い奴に勝つのは主人公だ。盛り上がるやり方ではあるのだが、近年限界を呈してきたように思える。というのも、ゲームのルールに従って闘う作品は過去にもあったが、TCGが定着したからだ。従来作品であれば、思いの強さに応じて肉体や玩具が速くなったり強くなったりする観念的要素が定番であった。TCGが他の玩具と違うのは、カードの文面という定量化かされた作用で勝利を収める点である。カード文面が思いの強さに応じて変化することは現実的ではないからだ。精々従来作品のやり方で出来ているのは、思いの強さでトップデッキしたように見せる位だ。また、現実では最強デッキでも無作為化されており、思いの強さだけではどうにもならないどうやっても負ける引きが存在する。勿論、そんな酷過ぎる事故負けを見せられても現実味はあるが面白みはないので、描かれることはほぼないといってよい。
次に、二番手とボスとの闘いにおいて重要なことは、主人公に対し思いを託して如何に負けさせるかにある。では、TCG作品での負け方について幾つか挙げてみよう。「異能の力や伝説の玩具によるゲームルールでの負け」「異能の力や伝説の玩具による精神攻撃のような盤外負け」「異能の力や伝説の玩具によるゲームルール及び盤外両面での負け」「最善を尽くすも引きが呼応せず負け」などである。要するに、「異能の力や伝説の玩具」の力による勝利が大半である。この中で、一番微妙だと感じるのは「異能の力や伝説の玩具による精神攻撃のような盤外負け」である。それは、異能の力や伝説の玩具といった圧倒的な暴力を備えたボスが、世界の命運をゲームの勝敗に託すという不合理な行為そのものに対する否定だからである。現実において、最後は暴力なのは疑いようも無い事実ではあるが、どんな世界観の設定であっても販促物でのバトルの勝敗に重きを置くのが玩具販促の流儀である。それに反するのだ。
二番手が世界を救うような作品は極めて稀ではあるが、TCGのような運要素を含んだゲームにおいては、二番手の実力でも強者たるボスに勝つ可能性がある以上、道理を歪めて主人公とボスを闘わせるためとしか思えない不合理な負けを二番手に強いるのではなく、その先の新たなるやり方が見たいものだ。準決勝で二番手が勝って主人公と決勝で闘うのは作品の終了を意味するのかもしれないが、いい加減にテレビ本編でも一目おかれる二番手が引き立て役を脱しても良いのではないだろうか。終生の好敵手かと思ったらぽっと出に負けるってのも定番化しているが、負け方に一工夫欲しいところだ。

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