【メモ】作為に無作為は宿るか
2012年12月3日 メモ九十九神から無感情キャラ、アニメ化という作為に対し宿る無作為。
およそ創作とは意図をもって行う作為であり、時折意図とは異なるか、あるいはそれ以上の効果の無作為であるかのように思えるものが現れる。
「犬も歩けば棒に当たる」を例に挙げると、実写では犬が歩いて棒に当たるようにするなりして撮れるのを待つことになる。一方で、アニメでは犬が歩いて棒に当たるように作る。両者は結果こそ同じだが、作為の度合いが異なるといえる。また、作為が過ぎると、わざとらしく感じられる。
別の例だと、九十九神的に見受けられる人工知能や人造人間のようなものも含めた無感情キャラは作為そのものであるが、そこに本来はないであろう自我という無作為が宿ることを愛おしく思う。これは作為に宿る無作為とでも定義しよう。ただし、その作為が過ぎるように感じる人もおり、かつ、宿る無作為が斬新で慣れに時間が掛かる場合もある。そして、無感情キャラは棒読み的でも良いが、どこかで自我を感じさせるものを求められることがあり、その場合は演者に腕を要求する役柄といえよう。
他の例としては、アニメ化という作為に対し、毎週の積み重ねを経て結実する感動という無作為が挙げられる。ただし、それが得られるかは未知数であり、感動という無作為は人により千差万別であり、原作での感動や世の評判によらず、自分が楽しめることを願うのみである。
およそ創作とは意図をもって行う作為であり、時折意図とは異なるか、あるいはそれ以上の効果の無作為であるかのように思えるものが現れる。
「犬も歩けば棒に当たる」を例に挙げると、実写では犬が歩いて棒に当たるようにするなりして撮れるのを待つことになる。一方で、アニメでは犬が歩いて棒に当たるように作る。両者は結果こそ同じだが、作為の度合いが異なるといえる。また、作為が過ぎると、わざとらしく感じられる。
別の例だと、九十九神的に見受けられる人工知能や人造人間のようなものも含めた無感情キャラは作為そのものであるが、そこに本来はないであろう自我という無作為が宿ることを愛おしく思う。これは作為に宿る無作為とでも定義しよう。ただし、その作為が過ぎるように感じる人もおり、かつ、宿る無作為が斬新で慣れに時間が掛かる場合もある。そして、無感情キャラは棒読み的でも良いが、どこかで自我を感じさせるものを求められることがあり、その場合は演者に腕を要求する役柄といえよう。
他の例としては、アニメ化という作為に対し、毎週の積み重ねを経て結実する感動という無作為が挙げられる。ただし、それが得られるかは未知数であり、感動という無作為は人により千差万別であり、原作での感動や世の評判によらず、自分が楽しめることを願うのみである。
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