メモ-アニメに受け継がれる武士道-
2010年5月25日 アンチプロパガンダ今回は、アニメとはどういうものかを改めて考える。
アニメーションにおける動きとは錯覚を使った技術である。人の目は、微細な変化の付いた止まっている絵を連続で見せることで動いていると補完出来る。ないことをあるように見せるといっても良い。
物語の多くはフィクションであり、物語を表現するとなると、ありそうだけどないことをあるように見せたり、ありもしないことをあるように見せる。前者は想定、後者は妄想といったところか。これは動きのための技術が持っている本質と似ている。
物語を錯覚技術によって映像に仕上げたものがアニメーションである。実写との決定的な違いは、偽物を偽物によって本物に近づけようと組み立てている。所詮は偽物であるが、あえて偽物を本物として楽しめるところに本質がある。
アニメといえば、日本産のアニメーションを指して使われる用語として定着している。では、アニメとアニメーションの違いを考えてみる。
技術的には、秒間の枚数に差があることを挙げる場合が多い。最初期においては、金銭上仕方なかった面もあるが、現在では部分や全体をあえて少ない枚数で表現している側面がある。従って、枚数の違いというよりは、枚数を超えた緩急の付け方の違いと考えられる。
物語的には、漫画やライトノベルによる原作媒体の豊富さや世界的に見て物語における制限の少なさが挙げられる。独自の発展を遂げた原作媒体の豊富さは確かにあるが、映像であるアニメにする際には、緩急の付け方が違っている場合が大半であり、翻訳的な改変が必要である。だが、物語で表現されている内容に共通して見られるものがある。それは、あえて明文や題目にせずとも、内なるものから来る感覚でことにあたれることだ。この内なるものとは、権威や法でもなく、神や仏のように超越した存在でもなく、人としての己から来る人道である。悪逆を出来るのにあえてしないことは、アニメーションよりはアニメの本質に近い。また、人を殺せる武器を持ちながら人を殺さずに活かすこととも似ている。これは、武士道的な心である。従って、アニメには武士道が受け継がれていると考えてよい。
世界文明において希有な道徳観を持つ日本だからこそ、日本でアニメーションの動きや演出の技術が向上していく中で独自性を持ちアニメーションとは異なる意味合いでアニメと呼ばれるものになったと考えられる。
アニメーションにおける動きとは錯覚を使った技術である。人の目は、微細な変化の付いた止まっている絵を連続で見せることで動いていると補完出来る。ないことをあるように見せるといっても良い。
物語の多くはフィクションであり、物語を表現するとなると、ありそうだけどないことをあるように見せたり、ありもしないことをあるように見せる。前者は想定、後者は妄想といったところか。これは動きのための技術が持っている本質と似ている。
物語を錯覚技術によって映像に仕上げたものがアニメーションである。実写との決定的な違いは、偽物を偽物によって本物に近づけようと組み立てている。所詮は偽物であるが、あえて偽物を本物として楽しめるところに本質がある。
アニメといえば、日本産のアニメーションを指して使われる用語として定着している。では、アニメとアニメーションの違いを考えてみる。
技術的には、秒間の枚数に差があることを挙げる場合が多い。最初期においては、金銭上仕方なかった面もあるが、現在では部分や全体をあえて少ない枚数で表現している側面がある。従って、枚数の違いというよりは、枚数を超えた緩急の付け方の違いと考えられる。
物語的には、漫画やライトノベルによる原作媒体の豊富さや世界的に見て物語における制限の少なさが挙げられる。独自の発展を遂げた原作媒体の豊富さは確かにあるが、映像であるアニメにする際には、緩急の付け方が違っている場合が大半であり、翻訳的な改変が必要である。だが、物語で表現されている内容に共通して見られるものがある。それは、あえて明文や題目にせずとも、内なるものから来る感覚でことにあたれることだ。この内なるものとは、権威や法でもなく、神や仏のように超越した存在でもなく、人としての己から来る人道である。悪逆を出来るのにあえてしないことは、アニメーションよりはアニメの本質に近い。また、人を殺せる武器を持ちながら人を殺さずに活かすこととも似ている。これは、武士道的な心である。従って、アニメには武士道が受け継がれていると考えてよい。
世界文明において希有な道徳観を持つ日本だからこそ、日本でアニメーションの動きや演出の技術が向上していく中で独自性を持ちアニメーションとは異なる意味合いでアニメと呼ばれるものになったと考えられる。
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