国産アニメ全般に流れる素朴な感情について考える。
素朴な感情、取り分け素朴な優しさ(愛と呼ばれる場合も)は、恐らく国産アニメの大半が持ち合わせているものだろう。素朴な優しさとは、公平に公正に行われる善意である。特別な力を持った者から、普通の者まで、老若男女を問わず、キャラクターであれば、人、人外の異形、機械といった対象を問わず、仲間であるかどうかを問わず時には敵でさえも助けたり、幸せであって欲しいと願う。そこには、打算や妥協、主義主張を超えたただ素朴な感情があり、理想的な姿が描かれている。これは、子供向けアニメのヒーロー像として顕著なものだが、敵と闘う作品だけでなく、多くの作品の登場人物で普遍的に描かれている感情だろう。
その一例として、萌えアニメ、主人公と沢山の主人公に好意を抱くヒロインが登場するアニメを考えてみる。
現実において、人を好きになる理由は論理的に説明しきれるものではないだろう。しかしながら、萌えアニメでは、主人公が素朴な優しさを持ち合わせており、そこに惹かれるヒロインの描写が多く見られる。つまり、素朴な優しさによって、人を好きになることを論理的に仕立て、都合よく好かれる主人公を客観的に眺める視聴者に対して、一応の正当性を見せていると考えられる。
このように、素朴な優しさは受け継がれるヒーロー像であり、多くの作品において普遍の道徳的なものとして受け継がれている。だから、根っからの悪党には素朴な優しさが無いものとして描かれ、根っからの悪党でない悪党は時折素朴な優しさが描かれる。
これは、プロパガンダ的ではあるものの、アニメに限らず存在している中々に否定しがたい感情であり、良く言えば情に篤い、悪く言えばお人よしな我々の伝統的価値観と言えよう。問題は、その感情を逆手に取って搾取しようとする輩である。変なプロパガンダを素朴な優しさで覆い、それなりに面白く仕上げてある作品の狡猾さ、それは末端の人員のミクロレベルでの奮闘が、作品というマクロレベルに結集すると変なプロパガンダに正当性を与えるという誤謬になる状況であり、怒りを禁じ得ないのである。

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