メモ-先出しの後出し-
2007年6月4日 放送中のアニメの感想とかフィクションである現実の問題に対する提起やイデオロギーが有効に機能するには、そのフィクションが物語としてある程度優れていたり、娯楽としての体感が高いものでないと、浮くのではないかなと。
現実に、人間の理性も思想も世界から悪意を無くすことは出来なかったわけで、人間は不完全だなと。その人間が想像して創造したフィクションも不完全だと思うわけで。そこに現実の問題に対する提起やイデオロギーを持ち出した所で、結局は不完全なものではないか。人間は伝聞したものや架空の体験に感じることはできるが、その体験と己の行動が同じような構造であったとしても、そうは気付かないし、気付いても容易に止められない。
フィクションは現実味を感じさせることが目的であって、現実に干渉するには乱暴なのだろう。たぶん、フィクションはそれでいい。
社会問題に干渉せずとも、心躍るドンパチが作品内の演出だけで、仮想現実としての現実味を感じさせてくれれば十分だと思う。でも、ロボットでドンパチやる世界の構築が難しいのも確かだ。作品構造の基にした何かの選択には思想が滲む。しかし、作品を構造で読み解く方法が広まった現代で、思想なしに構造を組むのは難しい。そこで、社会問題を基にそういうドンパチの成立する物語とそれが成立する世界にらしさを与えてやる。あくまで、構造に滲む思想はらしさや見せ方のための装置であって、らしさや見せ方が出来ていないと考慮に値しない。でも、色々な考証が雑だとらしくないと思われる。らしいと思わせる考証でも、映像娯楽としての体感を下げるような考証だと駄目。
僕にとって、フィクションの構造も重要だけど、らしさや見せ方がもっと重要だなと。要は、舞台装置の取捨選択をどうこう言うよりは、舞台での見せ方を楽しんでいるってことか。
まあ、、某00のキャッチコピーを見たので、展開への先出しジャンケンをキャッチコピーを受けて後出ししてみただけですわ。
現実に、人間の理性も思想も世界から悪意を無くすことは出来なかったわけで、人間は不完全だなと。その人間が想像して創造したフィクションも不完全だと思うわけで。そこに現実の問題に対する提起やイデオロギーを持ち出した所で、結局は不完全なものではないか。人間は伝聞したものや架空の体験に感じることはできるが、その体験と己の行動が同じような構造であったとしても、そうは気付かないし、気付いても容易に止められない。
フィクションは現実味を感じさせることが目的であって、現実に干渉するには乱暴なのだろう。たぶん、フィクションはそれでいい。
社会問題に干渉せずとも、心躍るドンパチが作品内の演出だけで、仮想現実としての現実味を感じさせてくれれば十分だと思う。でも、ロボットでドンパチやる世界の構築が難しいのも確かだ。作品構造の基にした何かの選択には思想が滲む。しかし、作品を構造で読み解く方法が広まった現代で、思想なしに構造を組むのは難しい。そこで、社会問題を基にそういうドンパチの成立する物語とそれが成立する世界にらしさを与えてやる。あくまで、構造に滲む思想はらしさや見せ方のための装置であって、らしさや見せ方が出来ていないと考慮に値しない。でも、色々な考証が雑だとらしくないと思われる。らしいと思わせる考証でも、映像娯楽としての体感を下げるような考証だと駄目。
僕にとって、フィクションの構造も重要だけど、らしさや見せ方がもっと重要だなと。要は、舞台装置の取捨選択をどうこう言うよりは、舞台での見せ方を楽しんでいるってことか。
まあ、、某00のキャッチコピーを見たので、展開への先出しジャンケンをキャッチコピーを受けて後出ししてみただけですわ。
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