何故安易な御都合主義展開が作品を台無しにする可能性に繋がると思うのか。
最終的に対立構造になった場合、「敵のイデオロギーVS主人公のエゴ」や「敵のエゴVS主人公のエゴ」のどちらかになることが多く、そのどちらにも「主人公のエゴ」が関わってくる。しかも、ほぼ全て主人公が勝つことが約束されている。そうなった時に、その勝者がそれまでにとってきた行動の論理性がガタガタだと、主人公が勝利するという最大の御都合主義の御都合主義加減が透けて見えるので白けてしまう。
最終的に対立構造になる場合、御都合主義展開を行った後に御都合主義加減に対する言及や非難といったケアがあれば、多少はとらえ方が良い方に変化する。
最終的に対立構造になった場合、「敵のイデオロギーVS主人公のエゴ」や「敵のエゴVS主人公のエゴ」のどちらかになることが多く、そのどちらにも「主人公のエゴ」が関わってくる。しかも、ほぼ全て主人公が勝つことが約束されている。そうなった時に、その勝者がそれまでにとってきた行動の論理性がガタガタだと、主人公が勝利するという最大の御都合主義の御都合主義加減が透けて見えるので白けてしまう。
最終的に対立構造になる場合、御都合主義展開を行った後に御都合主義加減に対する言及や非難といったケアがあれば、多少はとらえ方が良い方に変化する。
メモ-時代ものの利点-
2006年10月9日 メモ史実やある時代の伝承的や人物を組み込むことは、ある意味では幅を狭めるが、逆にその幅の中ならば存在可能なもので話を作れるので有利だ。近未来ものの場合だと、その時代にありそうなものや考え方を1から作らなければ行けない分の手間が掛かる。要するに、時代感を統一するだけでらしく見えるのではないかということ。
女性向けの原作もので描かれているような話は、受け手によって様々にリサイズされて「共感」に繋がっているのだろう。しかし、それは女性視点の願望充足的な話だ。
男性向けの願望充足的な話との差はそれほどない。あえて挙げるなら、前者はくっ付いてからが重要であって、後者はくっ付くまでが重要だという位だ。特に後者は現実の関係との展開時間の差が大きいことから、リアリズムが欠如していると扱われがちだ。
現代を舞台としているから、現実の我々の世界に少しだけ制約を与えて舞台を作ることになるわけだが、その制約がSFやファンタジー的であり、後者の方が非現実的要素の比率は多いだろうし、そのことが「リアリズム」から遠ざかっているかもしれない。しかし、「現実」の要素をより多く持っているから「リアリズム」なのではなく、「現実的」に感じさせる遣り取りが「リアリズム」に繋がるのではないか。その点では前者も後者も大差はない。なぜなら、どちらも展開に一喜一憂してやきもきさせられるのだから。
男性向けの願望充足的な話との差はそれほどない。あえて挙げるなら、前者はくっ付いてからが重要であって、後者はくっ付くまでが重要だという位だ。特に後者は現実の関係との展開時間の差が大きいことから、リアリズムが欠如していると扱われがちだ。
現代を舞台としているから、現実の我々の世界に少しだけ制約を与えて舞台を作ることになるわけだが、その制約がSFやファンタジー的であり、後者の方が非現実的要素の比率は多いだろうし、そのことが「リアリズム」から遠ざかっているかもしれない。しかし、「現実」の要素をより多く持っているから「リアリズム」なのではなく、「現実的」に感じさせる遣り取りが「リアリズム」に繋がるのではないか。その点では前者も後者も大差はない。なぜなら、どちらも展開に一喜一憂してやきもきさせられるのだから。
メモ-その終わりに訪れるもの-
2006年9月12日 メモ物語の密度が高くなる際に生じる問題
ストーリー以外の、キャラクター等が核となる作品の場合は、キャラクターの魅力やその掘り下げや別パターンの模索といったモラトリアム的な話を繰り返す。このモラトリアム的であることこそが作品の意義の大部分であることが多い。そして、特にそういう作品では、いよいよ話数が少なくなり終わりに近づいた時に、モラトリアムを終えるため物語の密度が高くなる。この時、完結した原作ものでは原作通りなのだが、連載中やオリジナルである場合には、モラトリアムの終わりや終わった後の(明確な終わりで区切らないまでも)次のモラトリアムへの繋ぎ等が必要になってくる。モラトリアムの終わりは時期が来たので終わるという単純な理由であっても、その後予想される進路を見せる必要があったり、決着をつける必要がある。この時の行動や結果にはその作品のテーマを締めくくる効果がある。また、一旦終わらせたと同様の総括を行った後に、次のモラトリアムに繋ぐという方法もある。さらに、終わらない日常として続いていくという方法もある。
これから放送終了を迎える作品はどうなるのか。これら以外の驚きの結末にも期待したい。
ストーリー以外の、キャラクター等が核となる作品の場合は、キャラクターの魅力やその掘り下げや別パターンの模索といったモラトリアム的な話を繰り返す。このモラトリアム的であることこそが作品の意義の大部分であることが多い。そして、特にそういう作品では、いよいよ話数が少なくなり終わりに近づいた時に、モラトリアムを終えるため物語の密度が高くなる。この時、完結した原作ものでは原作通りなのだが、連載中やオリジナルである場合には、モラトリアムの終わりや終わった後の(明確な終わりで区切らないまでも)次のモラトリアムへの繋ぎ等が必要になってくる。モラトリアムの終わりは時期が来たので終わるという単純な理由であっても、その後予想される進路を見せる必要があったり、決着をつける必要がある。この時の行動や結果にはその作品のテーマを締めくくる効果がある。また、一旦終わらせたと同様の総括を行った後に、次のモラトリアムに繋ぐという方法もある。さらに、終わらない日常として続いていくという方法もある。
これから放送終了を迎える作品はどうなるのか。これら以外の驚きの結末にも期待したい。
キャラクターを集合させたシーンのレイアウト、そこにはキャラクターの関係性だけでなく、性格も出ている。つまり、なぜその位置で、そのポーズなのか。そこにはそれなりの論理性があるだろう。そして、そういうものが出せていれば、それが作品の魅力になる。
論理的に合わせているからこそのレイアウトであるし、レイアウトに論理的に合わせているからともいえる。
・まとめ
集合って良いですね。
論理的に合わせているからこそのレイアウトであるし、レイアウトに論理的に合わせているからともいえる。
・まとめ
集合って良いですね。
メモ-ヒーローの印象-
2006年9月4日 メモ・承認欲求に無自覚な場合
世界を敵に回しても己の信念や倫理に殉じる→正統派ヒーロー
世界は自分の好む範囲の狭い世界であり、それに殉じる→ヒーローでなく悪役
・承認欲求に自覚的な場合
世界を敵に回しても己の信念や倫理に殉じる→孤高のヒーロー
世界は自分の好む範囲の狭い世界であり、それに殉じる→変化形ヒーロー
・まとめ
ヒーローはその承認欲求の自覚と行動によって印象が変わる。
世界を敵に回しても己の信念や倫理に殉じる→正統派ヒーロー
世界は自分の好む範囲の狭い世界であり、それに殉じる→ヒーローでなく悪役
・承認欲求に自覚的な場合
世界を敵に回しても己の信念や倫理に殉じる→孤高のヒーロー
世界は自分の好む範囲の狭い世界であり、それに殉じる→変化形ヒーロー
・まとめ
ヒーローはその承認欲求の自覚と行動によって印象が変わる。
メモ-綿密な設定は是か非か-
2006年8月25日 メモ設定があるから、話が広がる。話を広げるために、設定を用意する。同様に、設定があるから、話に制限がある。話に制限を設けるために、設定を用意する。
話やキャラクターの行動にリアリズムをもって展開されるならば、正の相互作用を生むだろう。しかし、設定だけで話やキャラクターの行動にリアリズムがなければ、その設定の綿密さが逆に気持ち悪いものに感じられたりする。ただ、話やキャラクターの行動にリアリズムがあっても、設定が滅茶苦茶な状態を許容しない作品には、そこそこに綿密な設定が必要だ。
結局は、作品の目指す方向によるだろう。
・まとめ
リアリズムに正の相互作用を成せる設定は是で、成せないものは非といったところか。
話やキャラクターの行動にリアリズムをもって展開されるならば、正の相互作用を生むだろう。しかし、設定だけで話やキャラクターの行動にリアリズムがなければ、その設定の綿密さが逆に気持ち悪いものに感じられたりする。ただ、話やキャラクターの行動にリアリズムがあっても、設定が滅茶苦茶な状態を許容しない作品には、そこそこに綿密な設定が必要だ。
結局は、作品の目指す方向によるだろう。
・まとめ
リアリズムに正の相互作用を成せる設定は是で、成せないものは非といったところか。
メモ-規制の難しさ-
2006年8月23日 メモ性や暴力の表現に対して、ある程度の規制は必要だと思われる。その規制の上で、直接的な表現を避け描写する場合には、暗喩や加工等で高度な技術を要求される。
例えば、死体を描かずに死を表現することはよくあるが、その場合、リアリズムを生み出す工夫が必要だ。同様に、裸体を描かずに性的興奮を誘発するには、高度な見せ方や演技力が要求される。
いっそ、首飛ばしたり、裸出した方が楽なこともある。だが、絵で描かれると陳腐に見えることがあって、不思議なものだ。
・まとめ
どちらにせよ。規制の上で、完成度を高めるには、ある程度の技術が要求される。
例えば、死体を描かずに死を表現することはよくあるが、その場合、リアリズムを生み出す工夫が必要だ。同様に、裸体を描かずに性的興奮を誘発するには、高度な見せ方や演技力が要求される。
いっそ、首飛ばしたり、裸出した方が楽なこともある。だが、絵で描かれると陳腐に見えることがあって、不思議なものだ。
・まとめ
どちらにせよ。規制の上で、完成度を高めるには、ある程度の技術が要求される。
メモ-現代的作品との対比による過小評価-
2006年8月17日 メモ現代や現実的な題材を使った作品の中でも、現実的恋愛を含んだ作品を現代的作品と定義する。それに対して、ファンタジーやSFや現実的に考えると都合の良すぎる相手との恋愛を含んだ作品がある。
今日のアニメにおいては、後者に分類される作品の方が圧倒的に多い。そして、後者の作品は、それを支持する者の抑圧された欲望や願望を仮託しているので、気持ちが悪いと否定されることがある。そういう否定をする者が高評価を与える作品は、(あくまで、ネット上や私個人の経験上でだが)前者に分類されることが多い。
確かに、後者の作品に対し、そのように感情移入するという側面は存在する。だが、前者の作品に、そのような側面が全く存在しないということはない。また、それらの作品をメタ的に見るならば、現実の自分に通ずる何かが存在している。
つまり、前者の作品に感情移入して感動することと、後者の作品に感情移入して感動することに大差はない。それが、マジョリティ的であるか、マイノリティ的であるかによって、肯定や否定されているのが現状である。
最後に、前者と後者の現実からの乖離具合の差をメタ的に見るならば、それが、マジョリティとマイノリティの現実での充実具合や抑圧具合の差であることを指摘しておきたい。
今日のアニメにおいては、後者に分類される作品の方が圧倒的に多い。そして、後者の作品は、それを支持する者の抑圧された欲望や願望を仮託しているので、気持ちが悪いと否定されることがある。そういう否定をする者が高評価を与える作品は、(あくまで、ネット上や私個人の経験上でだが)前者に分類されることが多い。
確かに、後者の作品に対し、そのように感情移入するという側面は存在する。だが、前者の作品に、そのような側面が全く存在しないということはない。また、それらの作品をメタ的に見るならば、現実の自分に通ずる何かが存在している。
つまり、前者の作品に感情移入して感動することと、後者の作品に感情移入して感動することに大差はない。それが、マジョリティ的であるか、マイノリティ的であるかによって、肯定や否定されているのが現状である。
最後に、前者と後者の現実からの乖離具合の差をメタ的に見るならば、それが、マジョリティとマイノリティの現実での充実具合や抑圧具合の差であることを指摘しておきたい。
メモ-分配率の最適化-
2006年8月14日 メモ話や(キャラクターの行動等の)物語り方の整合性の放棄、それ自体は失敗ではない。
ただその場合、キャラクター、デザイン、レイアウト、音響、キャラクターや演者の演技といった諸要素は作品の魅力となりうるので、高い完成度を要求される。
例えば、主人公が没個性的であったり、おかしな奴であり、彼の態度や行動は一貫性がなく、特に意味がないとする。
それでも、ヒロイン等が魅力的なキャラクターであったり、デザインに魅力があったり、レイアウトに魅力があったり、音響が雰囲気を出していたり、キャラクターや演者の演技といった要素がある程度のレベルならば、それは人を惹き付けることもある作品足り得る。
他には、ロボットもので、なぜか極東のある国にだけ、世界の命運を握る巨大ロボットがあるとして、その理由や説明が放棄やこじ付け気味にいても、キャラクターやロボットを生かすためだけの話であっても面白く感じることはある。
しかし、往々にして現状の制作体制や原作付なら原作が媒体変化によって魅力を失ったりして、見るも無残な易くて安そうな作品が出来上がったりする。
また、先に挙げた諸要素の完成度が(それ自体が作品を損なうものより上の中では)低くても、話や物語り方の整合性を保っているならば、大きな感動はないが、そこそこに見られる作品になることもある。
易くて安そうと言ったが、実際には安くない場合も多いだろう。
その空中分解ともいうべき状況を見るにつけ、惨状を語ることや批判することは容易だが、残念な気持ちになる。
全ての作品に少しでも見所があって欲しいと思っていても、現実は非情だ。
・まとめ
作品の魅力⊃話や物語り方の整合性
作品の魅力⊃先に挙げた諸要素
話や物語り方を大事にしないと、相当の労力が必要な作品となり易い。
あくまで、多くの場合そうなるみたいだということである。それでも、言語化不能な、一種の質感ともいうべきものに惹き付けられる作品が存在している。
ただその場合、キャラクター、デザイン、レイアウト、音響、キャラクターや演者の演技といった諸要素は作品の魅力となりうるので、高い完成度を要求される。
例えば、主人公が没個性的であったり、おかしな奴であり、彼の態度や行動は一貫性がなく、特に意味がないとする。
それでも、ヒロイン等が魅力的なキャラクターであったり、デザインに魅力があったり、レイアウトに魅力があったり、音響が雰囲気を出していたり、キャラクターや演者の演技といった要素がある程度のレベルならば、それは人を惹き付けることもある作品足り得る。
他には、ロボットもので、なぜか極東のある国にだけ、世界の命運を握る巨大ロボットがあるとして、その理由や説明が放棄やこじ付け気味にいても、キャラクターやロボットを生かすためだけの話であっても面白く感じることはある。
しかし、往々にして現状の制作体制や原作付なら原作が媒体変化によって魅力を失ったりして、見るも無残な易くて安そうな作品が出来上がったりする。
また、先に挙げた諸要素の完成度が(それ自体が作品を損なうものより上の中では)低くても、話や物語り方の整合性を保っているならば、大きな感動はないが、そこそこに見られる作品になることもある。
易くて安そうと言ったが、実際には安くない場合も多いだろう。
その空中分解ともいうべき状況を見るにつけ、惨状を語ることや批判することは容易だが、残念な気持ちになる。
全ての作品に少しでも見所があって欲しいと思っていても、現実は非情だ。
・まとめ
作品の魅力⊃話や物語り方の整合性
作品の魅力⊃先に挙げた諸要素
話や物語り方を大事にしないと、相当の労力が必要な作品となり易い。
あくまで、多くの場合そうなるみたいだということである。それでも、言語化不能な、一種の質感ともいうべきものに惹き付けられる作品が存在している。
昨日、音楽についての描写の映像化による困難さについて触れたことをまとめてみよう。
仮に、「多くの人を感動させる音楽」あるとする。
・文章の場合
修飾語等で音楽を詳しく説明。出来るのは、言語的に表すこと。
・漫画の場合
演奏や歌唱者を描き、台詞等で相互補強的に説明。出来るのは、言語的かつ視覚的に表すこと。
・映像の場合(今日的に考えて、音ありとする)
演奏者、歌唱者の行動やその音楽や台詞を撮る。出来るのは、言語的かつ視覚的かつ聴覚的に表すこと。
それぞれが表せる範囲で、実際に受け手にそう感じさせ得るにはそれぞれの範囲で一定の領域にまで達していなければならない。つまり、表せる要素が増えるほど、表さなくてはならない要素が増えることになる。
例に挙げた音楽は、聴覚によるものなので、言語的な台詞や視覚的な質感や画で説明しても、聴覚的にそれらの説明に値すると感じないなら、それらの説明は嘘っぽくなってしまう。
・まとめ
フィクションをリアルに近づけたり、リアルに感じさせるのは難しい。
仮に、「多くの人を感動させる音楽」あるとする。
・文章の場合
修飾語等で音楽を詳しく説明。出来るのは、言語的に表すこと。
・漫画の場合
演奏や歌唱者を描き、台詞等で相互補強的に説明。出来るのは、言語的かつ視覚的に表すこと。
・映像の場合(今日的に考えて、音ありとする)
演奏者、歌唱者の行動やその音楽や台詞を撮る。出来るのは、言語的かつ視覚的かつ聴覚的に表すこと。
それぞれが表せる範囲で、実際に受け手にそう感じさせ得るにはそれぞれの範囲で一定の領域にまで達していなければならない。つまり、表せる要素が増えるほど、表さなくてはならない要素が増えることになる。
例に挙げた音楽は、聴覚によるものなので、言語的な台詞や視覚的な質感や画で説明しても、聴覚的にそれらの説明に値すると感じないなら、それらの説明は嘘っぽくなってしまう。
・まとめ
フィクションをリアルに近づけたり、リアルに感じさせるのは難しい。
メモ-アニメ番組の数-
2006年7月31日 メモ月曜日は3つの番組の放送が被っている。
意図的に被ることを狙っているのか、いないのかは分からない。だが、意図的に被せているのなら、それだけ競合する番組が増えたということになる。
逆に、意図的に被せていないのなら、それだけ放送枠が空いていない所にねじ込んで放送するほど、番組が増えているという事になるか。
どちらにしろ、番組の数が増えすぎていることの弊害か。それとも単なる放送局の無思慮か。
意図的に被ることを狙っているのか、いないのかは分からない。だが、意図的に被せているのなら、それだけ競合する番組が増えたということになる。
逆に、意図的に被せていないのなら、それだけ放送枠が空いていない所にねじ込んで放送するほど、番組が増えているという事になるか。
どちらにしろ、番組の数が増えすぎていることの弊害か。それとも単なる放送局の無思慮か。
僕の経験では「正面の顔」と「正面以外の角度の顔」で全く別の人だと思って気付かないことがある。
これが遠近法に忠実に書いた絵にも当てはまるとするなら、「正面の綺麗に書かれた絵」と「正面以外の角度で遠近法に忠実に書いた絵」を比べて「正面以外で遠近法に忠実に書いた絵」が「正面の綺麗に書かれた絵」より「乱れている」と感じることがあるはずで、「乱れている」と感じる「正面以外で遠近法に忠実に書いた絵」が一連の動作の途中や予備動作にあったとして、それまでも「乱れている」と言っている面はないか。
そもそも「正面以外で遠近法に忠実に書いた絵」ってどんなのよ。って、あらら。遠近法についてよく知らないことを前提に類推しているから、前提が崩れると文章自体の意味がなくなるぞ。
・まとめ
未だに、僕の描く絵のほとんどは遠近法を使っていないわけで…。
これが遠近法に忠実に書いた絵にも当てはまるとするなら、「正面の綺麗に書かれた絵」と「正面以外の角度で遠近法に忠実に書いた絵」を比べて「正面以外で遠近法に忠実に書いた絵」が「正面の綺麗に書かれた絵」より「乱れている」と感じることがあるはずで、「乱れている」と感じる「正面以外で遠近法に忠実に書いた絵」が一連の動作の途中や予備動作にあったとして、それまでも「乱れている」と言っている面はないか。
そもそも「正面以外で遠近法に忠実に書いた絵」ってどんなのよ。って、あらら。遠近法についてよく知らないことを前提に類推しているから、前提が崩れると文章自体の意味がなくなるぞ。
・まとめ
未だに、僕の描く絵のほとんどは遠近法を使っていないわけで…。
メモ‐unkoな議論‐
2006年7月27日 メモ『ザ・サード 〜蒼い瞳の少女〜』の作画が乱れたとか乱れてないとか。確かに、所々惜しいなと思う不統一があるんだけど、何時もと違った配置に色使いは良かったと思う。
斜めとか上を向いているとか顔を振り向けるとか目も動かすとか3人がそれぞれ別角度のカメラを正面としているとか夜や影の暗さで負を表して夜空の星の輝きで希望を表すとか。
「乱れた」とは簡潔な表現だが、「何時もの本編と比べて」なのか、「キャラ表に忠実であろうOPと比べて」なのか、といった乱れたと見なす根拠や定義を表明せずに「乱れた」とだけ使われている言葉についてだけ議論するにも、相手の文脈上の意味がはっきりしないのに自分と同じか、一般的にそうであろうと類推した基準で議論をしてたら、unkoな議論にもなろう。
・まとめ
動きの始点と終点と中割と思しき絵とで瞳の大きさが不統一だったのは惜しい。
斜めとか上を向いているとか顔を振り向けるとか目も動かすとか3人がそれぞれ別角度のカメラを正面としているとか夜や影の暗さで負を表して夜空の星の輝きで希望を表すとか。
「乱れた」とは簡潔な表現だが、「何時もの本編と比べて」なのか、「キャラ表に忠実であろうOPと比べて」なのか、といった乱れたと見なす根拠や定義を表明せずに「乱れた」とだけ使われている言葉についてだけ議論するにも、相手の文脈上の意味がはっきりしないのに自分と同じか、一般的にそうであろうと類推した基準で議論をしてたら、unkoな議論にもなろう。
・まとめ
動きの始点と終点と中割と思しき絵とで瞳の大きさが不統一だったのは惜しい。
メモ-コミュニケーションの基礎-
2006年6月29日 メモ「今放送している中で、(物語の)面白いアニメが見たい。」
『涼宮ハルヒの憂鬱』はどうか。
「(物語が面白くない上に)世界系ぽいし、萌え系ぽいのも嫌だ。」
そうか、(動きとか)よく出来ていて面白いと思うけど。
「他に(物語の)面白いアニメはないか。」
・まとめ
互いが互いの面白いアニメの定義を理解していないので噛み合わない。
定義が違う雰囲気がしたら確認。
『涼宮ハルヒの憂鬱』はどうか。
「(物語が面白くない上に)世界系ぽいし、萌え系ぽいのも嫌だ。」
そうか、(動きとか)よく出来ていて面白いと思うけど。
「他に(物語の)面白いアニメはないか。」
・まとめ
互いが互いの面白いアニメの定義を理解していないので噛み合わない。
定義が違う雰囲気がしたら確認。
メモ-ちょっと悲しい話-
2006年6月22日 メモ画や動きといった作り込みの凄さであるとか、キャラクターデザインを多少外れての簡略化や抽象的にした画が動く面白さ。
これらは話の面白さや綺麗な折り目正しい画の良さよりはかなり複雑な面白さになる。例えて言うならば、画を見ての感動よりも文章を読んで連想される画に対する感動とではその複雑さという意味で違う。(複雑であるからといって良いという程に単純でもない。)
また、極めて高度な技法によって描かれた絵画は、その事実やその技法の高度さを理解できない者には小児の落書きにしか見えない。
あるものの価値を決めている尺度を未知または理解できない者にはそのものの価値を見抜くことは不可能ということか。
これらは話の面白さや綺麗な折り目正しい画の良さよりはかなり複雑な面白さになる。例えて言うならば、画を見ての感動よりも文章を読んで連想される画に対する感動とではその複雑さという意味で違う。(複雑であるからといって良いという程に単純でもない。)
また、極めて高度な技法によって描かれた絵画は、その事実やその技法の高度さを理解できない者には小児の落書きにしか見えない。
あるものの価値を決めている尺度を未知または理解できない者にはそのものの価値を見抜くことは不可能ということか。
メモ-子供向けアニメに対する蔑視について-
2006年6月14日 メモ子供向けアニメはしばしば子供向けであるということやパターンもので販促を前面に出している為か、批判を受けることがある。それらは単なる受け手の我がままではないか。
・そもそも子供向けとは
子供向けかどうか決めるのは子供ではない。より正確に言うならば、子供に人気があることや子供の人気を当て込んだ時間帯に放送するといった大人の都合である。
・単純な販促だと言うが
他の多くのアニメでDVDが発売され、その売り上げによって企画全体として資金回収が行われていることは公然の事実である。要するに、商品を買ってもらうためのイメージや品質(DVDの場合は本編の映像の完成度やその内容)の向上を行うのは当然である。また、ある集団(この場合は子供)に向けて作られたものがその事実のみによって批判が行われている。ミクロ的な視点でこういう批判を行うということは、マクロ的なマニア向けやマニアがいるジャンルであるがゆえの蔑視や批判と同種の行動である。
・まとめ
大人になっても子供向けアニメは面白い。
・そもそも子供向けとは
子供向けかどうか決めるのは子供ではない。より正確に言うならば、子供に人気があることや子供の人気を当て込んだ時間帯に放送するといった大人の都合である。
・単純な販促だと言うが
他の多くのアニメでDVDが発売され、その売り上げによって企画全体として資金回収が行われていることは公然の事実である。要するに、商品を買ってもらうためのイメージや品質(DVDの場合は本編の映像の完成度やその内容)の向上を行うのは当然である。また、ある集団(この場合は子供)に向けて作られたものがその事実のみによって批判が行われている。ミクロ的な視点でこういう批判を行うということは、マクロ的なマニア向けやマニアがいるジャンルであるがゆえの蔑視や批判と同種の行動である。
・まとめ
大人になっても子供向けアニメは面白い。
・表現方法の違い
例えば、「込み上げる怒りに打ち震える。」という場合には、文字ではこれがそのまま表現となり得る。しかし、映像の場合はこれを感じたものが何らかの演技で行う必要がある。具体的には、台詞やその読み方に差を付ける、動きの演じ方に差を付ける。多くの場合、感情の背景や情景の説明的な台詞は陳腐に感じられる。例えば、込み上げる怒りに打ち震えているからといって、「私は込み上げる怒りに打ち震えている。」などと言うことはまずない。実際には、声の調子、息遣い、表情、動きといったものから伺える。だが、説明的な台詞や演技が必要な場合もある。物語上の一瞬の出来事を心理的時間の演出として実際よりも長く、要するにスローモーションに見せた場合などには(スローモーション=時間の引き延ばしと受け取る記号となりつつはあるが)、それが一瞬のことであるという説明のために何らかの説明的な台詞や演技が必要となる場合がある。
・時間そのもの差
多くの場合、「30行の文字を読む時間≠その30行を映像化した場合の時間」となり長かったり短かったりと差が生じる。また、意図的に長くしたり短くしたりも出来るだろう。
・時間に対する情報量の差
時間に対する情報量の差も含んでいる。演技に何か複雑な意図があるのなら、それを文字にした場合にその複雑な意図の分だけの情報を持っていることになるだろう。それが読み取れるかどうかはその作り込みによるだろう。
例えば、「込み上げる怒りに打ち震える。」という場合には、文字ではこれがそのまま表現となり得る。しかし、映像の場合はこれを感じたものが何らかの演技で行う必要がある。具体的には、台詞やその読み方に差を付ける、動きの演じ方に差を付ける。多くの場合、感情の背景や情景の説明的な台詞は陳腐に感じられる。例えば、込み上げる怒りに打ち震えているからといって、「私は込み上げる怒りに打ち震えている。」などと言うことはまずない。実際には、声の調子、息遣い、表情、動きといったものから伺える。だが、説明的な台詞や演技が必要な場合もある。物語上の一瞬の出来事を心理的時間の演出として実際よりも長く、要するにスローモーションに見せた場合などには(スローモーション=時間の引き延ばしと受け取る記号となりつつはあるが)、それが一瞬のことであるという説明のために何らかの説明的な台詞や演技が必要となる場合がある。
・時間そのもの差
多くの場合、「30行の文字を読む時間≠その30行を映像化した場合の時間」となり長かったり短かったりと差が生じる。また、意図的に長くしたり短くしたりも出来るだろう。
・時間に対する情報量の差
時間に対する情報量の差も含んでいる。演技に何か複雑な意図があるのなら、それを文字にした場合にその複雑な意図の分だけの情報を持っていることになるだろう。それが読み取れるかどうかはその作り込みによるだろう。
他媒体からのアニメ化、特にゲームを原作とする場合について
・物語自体の時間的制約
ゲームにおいては「プレーヤーのプレイ時間=物語の時間」となり、アニメにおいては「視聴者の視聴時間=物語の時間」となる。一見すると、時間が物語の時間と等価であり、同質のものであるかに見えるが、実際には多くの場合物語の時間は「ゲーム>アニメ」である。ゆえに、取捨選択や選択性の違いを考慮した再構成が必ず行われる。要するに尺が違うから、見せ方も変わるのではないかということ。
・キャラクターの登場時間の制約
物語の時間に制約があるということは、キャラクターの登場時間も同様に違うということである。逆に「キャラクターの登場時間の総計≒物語の時間」とも言える。また、ゲームの場合はルートによってキャラクターの登場時間が違ったりするが、それと同様に全てのキャラクターを登場させるという行為はしばしば時間的制約により破綻をきたす。これは「キャラクターの登場時間の総計≒物語の時間」であるのならば、物語上大した意味のない顔見せ程度に終わっている場合において、必要な描写を行う時間の変わりにそれが行われるからではないかと思われる。
・物理的心理的時間の差
ゲームにおいては会心の一撃がなぜ会心の一撃であるのかという描写やその必要性が低い。なぜなら、会心の一撃は威力が数値的に見てとれる。アニメにおいては、その威力を物理的または心理的に表現する必要がある。その過程において同じ事実の表現であったとしても、表現自体の時間の差があるので、両者には時間に差が生じる。
・物語自体の時間的制約
ゲームにおいては「プレーヤーのプレイ時間=物語の時間」となり、アニメにおいては「視聴者の視聴時間=物語の時間」となる。一見すると、時間が物語の時間と等価であり、同質のものであるかに見えるが、実際には多くの場合物語の時間は「ゲーム>アニメ」である。ゆえに、取捨選択や選択性の違いを考慮した再構成が必ず行われる。要するに尺が違うから、見せ方も変わるのではないかということ。
・キャラクターの登場時間の制約
物語の時間に制約があるということは、キャラクターの登場時間も同様に違うということである。逆に「キャラクターの登場時間の総計≒物語の時間」とも言える。また、ゲームの場合はルートによってキャラクターの登場時間が違ったりするが、それと同様に全てのキャラクターを登場させるという行為はしばしば時間的制約により破綻をきたす。これは「キャラクターの登場時間の総計≒物語の時間」であるのならば、物語上大した意味のない顔見せ程度に終わっている場合において、必要な描写を行う時間の変わりにそれが行われるからではないかと思われる。
・物理的心理的時間の差
ゲームにおいては会心の一撃がなぜ会心の一撃であるのかという描写やその必要性が低い。なぜなら、会心の一撃は威力が数値的に見てとれる。アニメにおいては、その威力を物理的または心理的に表現する必要がある。その過程において同じ事実の表現であったとしても、表現自体の時間の差があるので、両者には時間に差が生じる。
事実(伏線)→仮説(視聴者のするであろう推定)→実験(本編)→実証(視聴者の納得)
要するにこのような思考の繰り返しかと思われる。
たまに実験の段階で全然気づかなかったぜとか間抜けな台詞が入って台無しになったりもする。
かと思えば、見えていない上に極めて難解であったり雑だったりすることもある。
適度に気づかせるか、気づいていなくとも納得させる。
そのさじ加減が難しいと思われる。
行き当たりで事件に巻き込まれて話が進んでいく場合もあるので、必ずしも明確な伏線が必要というわけでもないと思われる。
隠し情報といった所か。
要するにこのような思考の繰り返しかと思われる。
たまに実験の段階で全然気づかなかったぜとか間抜けな台詞が入って台無しになったりもする。
かと思えば、見えていない上に極めて難解であったり雑だったりすることもある。
適度に気づかせるか、気づいていなくとも納得させる。
そのさじ加減が難しいと思われる。
行き当たりで事件に巻き込まれて話が進んでいく場合もあるので、必ずしも明確な伏線が必要というわけでもないと思われる。
隠し情報といった所か。