メモ-アニメ特有の魅力-
2007年7月17日 メモ現状の市場における結果を見れば、消費者は映像において実写至上主義である。
実写の方が感覚として現実的であると捕らえやすいためか。
文学における写実至上主義と、映像における実写至上主義は似ている。
海外のアニメーションは日本のアニメと違って、3DCGのような技術を写実的な画作りに使うことへ力を注いでいる。そして、写実的なもので写実的なものを作ることがリアリティーの至上だと考えている節が見受けられる。
一方、日本のアニメは、非写実的な画や設定を前提とし、その上でシナリオを合わせ写実的な方向へ作ることが中心にある。
写実的でないものと写実的なものの織り交ぜで写実的なものを作る。そこから生まれるリアリティーに特有の魅力があるのではないか。
実写の方が感覚として現実的であると捕らえやすいためか。
文学における写実至上主義と、映像における実写至上主義は似ている。
海外のアニメーションは日本のアニメと違って、3DCGのような技術を写実的な画作りに使うことへ力を注いでいる。そして、写実的なもので写実的なものを作ることがリアリティーの至上だと考えている節が見受けられる。
一方、日本のアニメは、非写実的な画や設定を前提とし、その上でシナリオを合わせ写実的な方向へ作ることが中心にある。
写実的でないものと写実的なものの織り交ぜで写実的なものを作る。そこから生まれるリアリティーに特有の魅力があるのではないか。
メモ-物語は高尚か-
2007年3月19日 メモアニメといっても、その大半はテレビアニメである。そして、テレビアニメは番組であり、番組とは何らかの形で利益をあげることを目的としている。今やNHKで放送されていようと映像ソフトで利益をあげることが出来るので、全てのアニメはソフト化して売れれば利益をあげることが出来、多くはそのために作られていると言える。
このことは、アニメの物語を特別高尚と考えている人や資本主義的なものを低俗と考えている人やこういったことを考えたりしない人には、「確かにそうだけどと…」いった具合に辟易させるかもしれない。だが、それもまた事実である。その上でなお、人を惹き付けるのは、物語性、絵、動き、音楽、演者といった要素が、時に複雑に絡み合ったりすることによるものだろう。
さて、テレビアニメの大半は毎週30分×クール(1クール=3ヶ月)の形で放送されている。コマーシャルの効果を考えるのなら、毎週毎週視聴者を惹き付けたいのは当然だろう。その場合、連続性を持たせることが効果的だ。具体的には、物語性を持たせて、何話かもしくは全話を物語とする。そうすれば、全体を通して連続性を持つことになる。
しかしながら、物語性の有無が作品の優劣ではないし、物語性がただの思わせぶりで終わることもある。それは、物語を作ることでは失敗であろうが、個人的には、他の部分で何か気になる点があるのならば、その点の指摘を加えた上で作品を評価したい。物語は目立つし、僕にとっても、作品評価の中心として大きな割合を占めている。結局の所、物語といっても連続性の為の手法であるし、それは資本主義的な都合でもある。それならば、常に物語やそれに関する評価だけをもって作品の評価とするのは、視野狭窄な気もする。
こうやって評価の構成要素を表明しないと、評価の違いの比較が比較にならないと考えたので、今回の文章を書いた。
まあ、結局の所、キャラクター、作画、音楽、演者、その他の作品の要素は何でもドンと来いってことですけどね。
まとめ
・物語が作品に占める割合は大きいが、全てではない。よって、物語が評価に占める割合も大きいが、全てではない。
このことは、アニメの物語を特別高尚と考えている人や資本主義的なものを低俗と考えている人やこういったことを考えたりしない人には、「確かにそうだけどと…」いった具合に辟易させるかもしれない。だが、それもまた事実である。その上でなお、人を惹き付けるのは、物語性、絵、動き、音楽、演者といった要素が、時に複雑に絡み合ったりすることによるものだろう。
さて、テレビアニメの大半は毎週30分×クール(1クール=3ヶ月)の形で放送されている。コマーシャルの効果を考えるのなら、毎週毎週視聴者を惹き付けたいのは当然だろう。その場合、連続性を持たせることが効果的だ。具体的には、物語性を持たせて、何話かもしくは全話を物語とする。そうすれば、全体を通して連続性を持つことになる。
しかしながら、物語性の有無が作品の優劣ではないし、物語性がただの思わせぶりで終わることもある。それは、物語を作ることでは失敗であろうが、個人的には、他の部分で何か気になる点があるのならば、その点の指摘を加えた上で作品を評価したい。物語は目立つし、僕にとっても、作品評価の中心として大きな割合を占めている。結局の所、物語といっても連続性の為の手法であるし、それは資本主義的な都合でもある。それならば、常に物語やそれに関する評価だけをもって作品の評価とするのは、視野狭窄な気もする。
こうやって評価の構成要素を表明しないと、評価の違いの比較が比較にならないと考えたので、今回の文章を書いた。
まあ、結局の所、キャラクター、作画、音楽、演者、その他の作品の要素は何でもドンと来いってことですけどね。
まとめ
・物語が作品に占める割合は大きいが、全てではない。よって、物語が評価に占める割合も大きいが、全てではない。
メモ-ツンデレ攻略法-
2007年3月2日 メモ「普段は話の内容やキャラクター中心で見たり語り、作画回りの話をしても瑣末なことのように扱うのに、別の作品に似たもしくは似せたと思しき描写が出てきた途端にパクリだ何だと話し出すツンデレな人との上手な話し方」
ある作品のどこかが別の作品のどこかと似たもしくは似せたと思しき場合に、それをパクリやパロディー、オマージュ等と呼ぶ。今回は主にパクリについて言及する。
まず、パクリと呼ぶ場合に、どの程度近似していればパクリと呼ぶのか。これは、パクリに言及する人の価値判断によって変動する。また、パクリと呼ぶ場合は他の二つの呼び方と比べ悪い意味を含むことが多い。その場合、「パクリそのものを程度が低いと思っている」、「パクり方が安直もしくはそう思える」、「パクられた側の作品に思い入れがある」、「パクった側の作品を良いと思っていない」、「パクった内容を効果的に使えていない」が悪い印象の主な原因として挙げられる。今挙げた主な原因だが、単にパクリもパロディーもオマージュもまとめてパクリと呼ぶ場合もあり、その場合も含め個人の感情や印象によるものであり、人によって変動する。よって、便宜的に定義はできるが厳密に定義することは難しい。では、パクリと指摘する目的は何か。「単なるパクリと指摘した」、「パクリと指摘すること自体の快感」、「パクリと指摘した上での言及」等がそれにあたる。
仮に、パクリと指摘する時には、「単なるパクリと指摘した」、「パクリと指摘すること自体の快感」という場合もあるが、そこには何らかの感情や印象が含まれているはずである。しかしながら、パクリと指摘する時に感情や印象が述べられていない場合がある。そうなると、やりとりとしては「パクリかどうか」、「パクリ自体の善悪」といった部分にしか触れられないので不毛なやりとりになる。しかるに、感情や印象による尺度で行った判断なのだから、その尺度を暗黙のままよりは白日の下に晒した上でやりとりする方が有益であろう。
まあ、言葉でかどうかはさておき、伝えようとしない考えは分からないというだけのいつもの話ですな。
まとめ
・類似についての尺度は個人の感情や印象によるものなので、人によって変動する。
・類似についての判断は人によって変動するので厳密な定義が難しい。
・「何か」より「なぜか」を述べた方が有益な場合がある。
・伝えようとしていない考えは他人に伝わらない。
ある作品のどこかが別の作品のどこかと似たもしくは似せたと思しき場合に、それをパクリやパロディー、オマージュ等と呼ぶ。今回は主にパクリについて言及する。
まず、パクリと呼ぶ場合に、どの程度近似していればパクリと呼ぶのか。これは、パクリに言及する人の価値判断によって変動する。また、パクリと呼ぶ場合は他の二つの呼び方と比べ悪い意味を含むことが多い。その場合、「パクリそのものを程度が低いと思っている」、「パクり方が安直もしくはそう思える」、「パクられた側の作品に思い入れがある」、「パクった側の作品を良いと思っていない」、「パクった内容を効果的に使えていない」が悪い印象の主な原因として挙げられる。今挙げた主な原因だが、単にパクリもパロディーもオマージュもまとめてパクリと呼ぶ場合もあり、その場合も含め個人の感情や印象によるものであり、人によって変動する。よって、便宜的に定義はできるが厳密に定義することは難しい。では、パクリと指摘する目的は何か。「単なるパクリと指摘した」、「パクリと指摘すること自体の快感」、「パクリと指摘した上での言及」等がそれにあたる。
仮に、パクリと指摘する時には、「単なるパクリと指摘した」、「パクリと指摘すること自体の快感」という場合もあるが、そこには何らかの感情や印象が含まれているはずである。しかしながら、パクリと指摘する時に感情や印象が述べられていない場合がある。そうなると、やりとりとしては「パクリかどうか」、「パクリ自体の善悪」といった部分にしか触れられないので不毛なやりとりになる。しかるに、感情や印象による尺度で行った判断なのだから、その尺度を暗黙のままよりは白日の下に晒した上でやりとりする方が有益であろう。
まあ、言葉でかどうかはさておき、伝えようとしない考えは分からないというだけのいつもの話ですな。
まとめ
・類似についての尺度は個人の感情や印象によるものなので、人によって変動する。
・類似についての判断は人によって変動するので厳密な定義が難しい。
・「何か」より「なぜか」を述べた方が有益な場合がある。
・伝えようとしていない考えは他人に伝わらない。
メモ-今更戻れない-
2007年2月23日 メモ「最近のアニメはつまらない。」「今のアニメはよく解らない。」と言う前に踏まえたいこと
まず、昔と比べると視覚的快感重視の作品であっても論理軽視が減っていることが挙げられる。つまり、視覚的快感重視の作品を求めているのならば、用意されている理が何となくこじ付けとか煩しく感じることになるかもしれない。また、幾つかのヒット作を経たことで、そこであった表現方が誇張されたものになっていることも挙げられるだろう。さらに、「価値観の多様化」や「共通体験の減少」や「共通認識の減少」が本当に起こっているのならば、それによって見え方に生じるぶれや蓄積から発見された形式の認知によって生じる作り物感を、ある程度一つの方向に誘導するために必要な論理性(人によっては言い訳やこじ付けとも言う)を持っている。つまり、その論理性を探していけばある程度話が解るだろう。また、設定が難解や受け入れ難いものについては、やりとりの内容よりもやりとりの事実を中心に追っていけば解りやすいだろう。
まとめ
・真に迫る作り物には感情の流れにも理がある。
・最近のアニメは表現法が誇張されているものがある。
・やりとりの内容が微妙でもやりとりの事実や勢いで見せるものがある。
・とはいっても、最後は見る人にとってつまるかつまらないかということにはなる。
個人的にはやりとりの内容が微妙だと作り物感が気になってしまって困る。
まず、昔と比べると視覚的快感重視の作品であっても論理軽視が減っていることが挙げられる。つまり、視覚的快感重視の作品を求めているのならば、用意されている理が何となくこじ付けとか煩しく感じることになるかもしれない。また、幾つかのヒット作を経たことで、そこであった表現方が誇張されたものになっていることも挙げられるだろう。さらに、「価値観の多様化」や「共通体験の減少」や「共通認識の減少」が本当に起こっているのならば、それによって見え方に生じるぶれや蓄積から発見された形式の認知によって生じる作り物感を、ある程度一つの方向に誘導するために必要な論理性(人によっては言い訳やこじ付けとも言う)を持っている。つまり、その論理性を探していけばある程度話が解るだろう。また、設定が難解や受け入れ難いものについては、やりとりの内容よりもやりとりの事実を中心に追っていけば解りやすいだろう。
まとめ
・真に迫る作り物には感情の流れにも理がある。
・最近のアニメは表現法が誇張されているものがある。
・やりとりの内容が微妙でもやりとりの事実や勢いで見せるものがある。
・とはいっても、最後は見る人にとってつまるかつまらないかということにはなる。
個人的にはやりとりの内容が微妙だと作り物感が気になってしまって困る。
メモ-思想や心情を生み出すものとは-
2007年2月13日 メモ前回、キャラクターのやりとりは背景となる思想や心情が大事だと書いた。しかし、キャラクターは滅多に思想や心情を表明したりはしない。では、思想や心情を読み取れるものは何なのか。それは、言動や行動の際の意思決定や言動や行動そのものやその蓄積だ。受け手は、そこからそのキャラクターの思想や心情を読み取る。そこで重要なことは、以前にも書いた一貫性である。一貫性のないキャラクターからは思想や心情が読み取りづらく、よく分からないとしか言えない。よって、一貫性のあるやりとりが重要だろう。
・まとめ
一貫性のあるやりとりが思想や心情を生み出し、それがまたやりとりを強固にし、そのやりとりが思想や心情を強固とする。つまり、フィードバックってことですな。
・まとめ
一貫性のあるやりとりが思想や心情を生み出し、それがまたやりとりを強固にし、そのやりとりが思想や心情を強固とする。つまり、フィードバックってことですな。
メモ-やりとりには背景がある-
2007年2月12日 メモロボットもの等ではSF面での設定考証がある程度必要だ。ただ、いくら設定を用意しようとドキュメンタリー形式でもないかぎりはキャラクターのやりとりが大事だ。やりとりといっても、それを成立させるための前提となる思想や心情も考慮すべきだろう。思想や心情が飛躍しすぎていたり的外れだと、やりとりそのものから作り物臭さが出てしまう。要は、世界観に見合う思想や心情というものがあるのではないかとういうこと。また、その思想や心情に見合ったやりとりがなされていれば、それは自然にキャラクターが動いていると見えるのだろう。よって、SFのような設定や世界観と同様にキャラクターが持つ思想や心情が納得のいく範囲内で読み取れることも大事だ。
・まとめ
最終的に、やりとりの背景にある思想や心情が納得いく範囲内で収まっているかどうかが大事
・まとめ
最終的に、やりとりの背景にある思想や心情が納得いく範囲内で収まっているかどうかが大事
状況を説明する台詞はよくあるし、必要だろう。一方、感情を説明する台詞は少ないし、なるべく必要ないだろう。本来、仕草や表情に語気といった直接的ないし、画面の質感や音といった間接的な内容で感情を説明できる場合が多く、それを台詞でやってしまっては作り物感が出てしまい興醒めする。また、一見すると状況を説明している台詞でも、理解しているかどうかについての台詞は感情を説明する台詞に近い。よって、これも興醒めする台詞に分類できるだろう。
・まとめ
感情は言葉そのもので説明するよりは、感情から来る要素で説明した方が賢明だろう。
・まとめ
感情は言葉そのもので説明するよりは、感情から来る要素で説明した方が賢明だろう。
メモ-実写とアニメ-
2007年1月2日 メモ*基本かつ簡易なことなので、量の割には中身スカスカです。(他人に少しでも解るように言葉で纏めようとすると長くなってしまいます。全くもって力不足です。)
実写はCGの合成などもあるが、ベースは実物の投影をカメラに収めたものだ。よって、被写体は実物。
一方、アニメは絵を実物の投影としてカメラに収めたかのように作っている。よって、被写体は絵。
実物の投影は実物ではないし、絵は実物ではない。よって、どちらも厳密には作り物である。ただ、実写のほうが実物っぽさが高い。また、絵を実物であるかのように見るのは実写を実物として見るよりも、約束に基づかなければならない分だけ困難だ。
実写の利点は実物っぽさが高いことだ。簡潔に言うと、何をやっても実物を描く上ではそれなりに見えるということだ。
他方、アニメの利点は実物っぽさが低いことだ。簡潔に言うと、実物の制約をある程度無視できるということだ。
・まとめ
実写は実物を描くのが得意で、アニメは実物でないものを描くのが得意。
実写はCGの合成などもあるが、ベースは実物の投影をカメラに収めたものだ。よって、被写体は実物。
一方、アニメは絵を実物の投影としてカメラに収めたかのように作っている。よって、被写体は絵。
実物の投影は実物ではないし、絵は実物ではない。よって、どちらも厳密には作り物である。ただ、実写のほうが実物っぽさが高い。また、絵を実物であるかのように見るのは実写を実物として見るよりも、約束に基づかなければならない分だけ困難だ。
実写の利点は実物っぽさが高いことだ。簡潔に言うと、何をやっても実物を描く上ではそれなりに見えるということだ。
他方、アニメの利点は実物っぽさが低いことだ。簡潔に言うと、実物の制約をある程度無視できるということだ。
・まとめ
実写は実物を描くのが得意で、アニメは実物でないものを描くのが得意。
・体感
迫力のような快感のある映像とそれを見ているということとその時の感覚
・論理
台詞の説明や映像による説明
頭空っぽにして楽しめるというのは体感が大きい場合。一方、納得して見られるのは論理が大きい場合。また、両者のバランスが良い作品だとより多くの人に薦められるでしょう。
・まとめ
体感と論理のバランスが重要。
迫力のような快感のある映像とそれを見ているということとその時の感覚
・論理
台詞の説明や映像による説明
頭空っぽにして楽しめるというのは体感が大きい場合。一方、納得して見られるのは論理が大きい場合。また、両者のバランスが良い作品だとより多くの人に薦められるでしょう。
・まとめ
体感と論理のバランスが重要。
そもそも、一定のファンを見込めるからこその原作付きであることに留意。
・原作を忠実に再現した場合
シナリオの良し悪しを論じても、元となった原作の出来によると事が大きい。また、再現度や再現方法による所も大きい。
・原作をアレンジした場合
アレンジのやり方、特にシナリオの取捨選択や追加についての良し悪しによる所が大きい。
・原作にないオリジナルにした場合
シナリオの良し悪しや、原作を受けての広げ方による所が大きい。
・まとめ
シナリオや元となる原作を論じるだけでは推し量れない部分がある。共感や快感以外の評価軸が必要か。
・原作を忠実に再現した場合
シナリオの良し悪しを論じても、元となった原作の出来によると事が大きい。また、再現度や再現方法による所も大きい。
・原作をアレンジした場合
アレンジのやり方、特にシナリオの取捨選択や追加についての良し悪しによる所が大きい。
・原作にないオリジナルにした場合
シナリオの良し悪しや、原作を受けての広げ方による所が大きい。
・まとめ
シナリオや元となる原作を論じるだけでは推し量れない部分がある。共感や快感以外の評価軸が必要か。
男児向けの作品では、修行やパワーアップによって困難を解決する場合が多い。一方、女児向け作品では、新しい玩具である新アイテムのおかげ解決される場合が多い。所有欲求には、追体験装置と所有による自己価値の上昇の側面があると思われるが、女児向けの場合、所有による自己価値の上昇を目的としたであろう描写が多い。また、男児向けの場合は、ごっこ遊びの道具や並べて観賞することでの追体験装置としての描写が多い。女児向けでは、戦闘ものであっても自己の鍛錬以外の要素によって勝利する。これは、所有による自己価値の上昇の側面を強調しているからだろう。
個人にとって、絶対的な価値尺度といえる感性。それが常に共有できるとは限らない。そこで、感性を言語のような具体的なもので表し、共有しようとする。つまり、「面白かった」という感性よりは、その感性を言語化することや、「〜なので面白かった」と理由も述べた方が共有し易いと思われる。また、「面白かった」という感性を述べるよりは、それが感性によるものだと理由を付け加えた方が共有しやすい。また、単に「面白かった」という感性を述べることが、理由を付け加えて述べることと比べて、劣っていることはない。ただ、同じ感性を持たない人間にとって、それを共有することは難しい。
・まとめ
「面白かった」という感性自体に優劣はないが、理由を付け加えて述べた方が感性を共有し易い。
・まとめ
「面白かった」という感性自体に優劣はないが、理由を付け加えて述べた方が感性を共有し易い。
メモ-では、その意味とは-
2006年11月29日 メモかつて、上映会や個人のライブラリとして扱われていた作品達。それも今や、容易にただ乗り(厳密には設備費用と時間は必要)出来る時代となった。そして、それはいつでも追える視聴形態である。設備さえあればいつでも上映できるが、時間を必要とするので、その気になればという条件を含む。その流れの中で、個人が作品についてあれこれ述べることは、かつての上映会における上映予定への干渉に相当する。要は、お勧め作品上映会の上映場所が個人の領域になっても、お勧めしたがる人はいるってことです。
放映中アニメの数が膨大となってきた。どの番組が面白くて、どの番組に時間を割くのか。これは、時間配分の最適化という名の良いとこ取りに他ならない。僕から言えることは、新番組を全部見る気概が無いのなら、テレビアニメは追いかけるだけの水準を保っていないということだ。
・まとめ
どの番組を見ればいいのか?
面白そうなのを全部見たら良いんですよ。
・まとめ
どの番組を見ればいいのか?
面白そうなのを全部見たら良いんですよ。
リズムに合わせたカットの切り替えの快感は、感覚寄りの快感。
歌詞の内容や本編の内容またはそれを連想させるものに合わせた絵の快感は、論理寄りの快感。
とはいえ、映像は流れて行き感覚として残る部分に寄っているとも思えるので、これらの相乗効果はやや感覚寄りかなと。
歌詞の内容や本編の内容またはそれを連想させるものに合わせた絵の快感は、論理寄りの快感。
とはいえ、映像は流れて行き感覚として残る部分に寄っているとも思えるので、これらの相乗効果はやや感覚寄りかなと。
日常において、何となく行動することはある。突き詰めれば、何となくにも理由らしきものはあり得る。一方、映像作品では、見えていない部分や見せていない部分を理由としていることがある。けれども、見ている側はそれを知らないので作り手の都合に引き摺られたように見える。また、そういう理由であろうと想像して補完することは可能だが、それが今後も見えないままや見せないままであれば、好意的解釈を行っているに過ぎず、それが出来ないものにとって楽しめない作品となる。原作がある場合や1クールのように尺が短い場合、原作による補完に頼ったり、選択によって切り捨てた部分に含まれていることがある。全話を通して制作されているのではなく、各話を制作し全話を制作している以上、この手のブレが生じることは仕方ない。それも、テレビアニメの魅力だ。
メモ-情報量の違いと時間-
2006年11月18日 メモ一目惚れのように現実の時間にして一瞬の感情の動きは流れていく映像の時間においては一瞬では物足りなく感じることがある。それは、現実にある空気や質感が映像媒体によっては得られないので、情報不足となるからだろうか。
映像は音楽のように感覚に訴えるものなので、その論理性は圧倒的な情報量以上にカットの積み重ねのような時間を必要とするからだろうか。
中々くっ付かないのはリアリティーがないかもしれないがくっ付くかどうかが物語を牽引する場合、時間を重ねることが結果に説得力を持たせることになることがある。逆に、すぐくっ付ける時は映像に相当の力を持たせないと説得力が得られない。
映像は音楽のように感覚に訴えるものなので、その論理性は圧倒的な情報量以上にカットの積み重ねのような時間を必要とするからだろうか。
中々くっ付かないのはリアリティーがないかもしれないがくっ付くかどうかが物語を牽引する場合、時間を重ねることが結果に説得力を持たせることになることがある。逆に、すぐくっ付ける時は映像に相当の力を持たせないと説得力が得られない。
メモ-物語について- *長文
2006年11月1日 メモ「物語上で大した意味はないが、キャラクターの魅力を見せるのに不可欠なシーン」は存在するのか。
・前提
仮に、作品世界で起こったことやキャラクターのような作品世界の存在が起こしたことと、その連続が物語であるとする。
まず、作品世界が存在し、何らかの物語りたいことの為に働くと見ることが来る。他方、作品世界でのシミュレートの結果として、物語が存在すると見ることも出来る。これらは、見方や作り方として異なるだけで、結果としての物語の違いに関らず、どちらも物語であることに変わりは無い。よって、物語と作品世界は一方が他方に従属するという関係ではなく、相関関係にあると見られる。
「キャラクターの魅力を見せるのに不可欠なシーン」が物語上で大した意味はないと見えるのは、「作品世界が存在し、何らかの物語りたいことの為にだけ働く」と見た場合に、「キャラクターの魅力を見せるのに不可欠なシーン」が物語りたいことの為だけに用意されていなので、そう見えるのではないか。これは、「作品世界が存在し、何らかの物語りたいことの為に働く」という関係しか見ないからそう思うわけで、前提に基づくと、全てのシーンは制作者の意図に関らず、受け手側で何らかの物語上の意味を見出す可能性がある。また、キャラクターは物語の為に働くだけでなく、物語を生み出す要素でもある。よって、「キャラクターの魅力を見せるのに不可欠なシーン」は物語上で大した意味がある。
・まとめ
一面だけで考えた場合、存在するが、他の面も含めて考えた場合、存在しない。
・前提
仮に、作品世界で起こったことやキャラクターのような作品世界の存在が起こしたことと、その連続が物語であるとする。
まず、作品世界が存在し、何らかの物語りたいことの為に働くと見ることが来る。他方、作品世界でのシミュレートの結果として、物語が存在すると見ることも出来る。これらは、見方や作り方として異なるだけで、結果としての物語の違いに関らず、どちらも物語であることに変わりは無い。よって、物語と作品世界は一方が他方に従属するという関係ではなく、相関関係にあると見られる。
「キャラクターの魅力を見せるのに不可欠なシーン」が物語上で大した意味はないと見えるのは、「作品世界が存在し、何らかの物語りたいことの為にだけ働く」と見た場合に、「キャラクターの魅力を見せるのに不可欠なシーン」が物語りたいことの為だけに用意されていなので、そう見えるのではないか。これは、「作品世界が存在し、何らかの物語りたいことの為に働く」という関係しか見ないからそう思うわけで、前提に基づくと、全てのシーンは制作者の意図に関らず、受け手側で何らかの物語上の意味を見出す可能性がある。また、キャラクターは物語の為に働くだけでなく、物語を生み出す要素でもある。よって、「キャラクターの魅力を見せるのに不可欠なシーン」は物語上で大した意味がある。
・まとめ
一面だけで考えた場合、存在するが、他の面も含めて考えた場合、存在しない。
顔のパーツが誇張されているデザインだと、動かしたり角度が変わる度に正確に遠近法を用いた場合、気持ち悪く見えることがある。
キャラクター化の代償にリアリティを喪失してしまったということか。
キャラクター化の代償にリアリティを喪失してしまったということか。
メモ-要素の組込の限界-
2006年10月12日 メモ音楽の良さを演出するために、受けている客や受けている事実を見せる等がなされているが、音楽自体に力がないとこちらが同様の感性を持っていない限りはリアリズムから遠のく。
物語の重要な要素にするとか圧倒的な作画で見せるといった、物語の論理や音楽以外の感覚に訴えるもので引っ張っていく方が見ていて違和感が少なかった。それほどまでに、万人の感性に訴えかけるものを作るのは難しいということか。
物語の重要な要素にするとか圧倒的な作画で見せるといった、物語の論理や音楽以外の感覚に訴えるもので引っ張っていく方が見ていて違和感が少なかった。それほどまでに、万人の感性に訴えかけるものを作るのは難しいということか。